違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

知りたいことは何?

ネットが無かった頃、わからないことを知りたいと思ったら先ず辞書や百科事典を調べるのが基本だった。

 

そして、それ以上のことを知りたいと望むなら別途何かしらの資料を求めることになった。

 

本屋や図書館でタイトルから絞り込んで、手に取ってパラパラとページをめくって、希望と合致する内容かどうかを判断して知っていた。

 

身近に専門家がいればその専門家から、あるいは学校の先生が頼りになる場合は先生から情報や資料を入手するという手も典型だった。

 

 

これに革命を起こしたのがインターネットだったが、初期のインターネットは結構お粗末だったので、気の利いた本や実際の先生の方が役に立っていた。

 

そして現在、質はともかく量は検索市場の方が充実するようになった。

 

検索の歴史を振り返ると、当初は文字(+写真や絵)で表現される情報が主流だったという意味では本屋や図書館と大した違いはなかった。

 

しかし検索対象に、Youtubeのようにテーマを設けて編集された動画や、個人の本音や表沙汰にし辛い感情の表現が可能になったSNSまで含まれるようになると、人が情報に動かされることが増えてきた。

 

百聞は一見にしかず的で、論より証拠的な、単純明快な分かりやすさがYoutubeやSNSにはあるのだ。

 

 

最近では動画の分かりやすさは十分認めた上で、同じ時間の動画が伝える情報と、同じ時間の読書で得られる情報量を比較すると、文字情報の方が伝えられることは多いという指摘も増えている。

 

 

人が利用するのが情報だったはずだが、いつの間にか情報に利用され踊らされる人が増えてきた。

 

 

そうなったことは自然な流れではあるが、ささやかに抵抗したいという気持ちもある。

 

抵抗するとはどういうことか?

 

 

 

情報はあくまでも利用するものだから、利用できるためには素材としての精度や純度の高さが条件になる。

 

 

情報はどんどん増えているが、増えれば増えるほど、自分に必要な情報の割合は小さくなっていくので、必然的に純度が下がり、検索の精度も悪くなるはず。

 

 

求められる条件は、利用する人の側にも課される。

 

 

自分が何を求めているのか、そのことを理解してなければいけない。

 

 

これはシンプルだが難しい。

 

なぜなら人それぞれにさまざまな事情や感情の変動が常に起こるからだ。

 

 

つまり、人は不安定。

 

だから、情報に求めることも、情報から受ける影響も、想定外や予想外が多くて当たり前、だから楽しいとも言える。

 

 

知りたいことは何なのか?

 

分かってるようで分かってないものだ。