最近は色々なことを教えてくれる人が『教え魔』と呼ばれるようになり嫌われている。
つまり、教えられるということはお節介扱いなのだ。
しかし、その一方で探し物に関して問いを発する場合には、『おススメ』としての答えやアドバイスを手軽に求める。
探し物は物だけに留まらず、職業や生き方や財産資産などまで含まれる。
教え魔は嫌われるのに、おすすめは求められる。
中身に大した違いがあるようには感じられない。
一言で言うと、どちらも所詮情報だ。
情報に関して何を重視すれば良いのか?
誰もが内容次第だと思うだろうが、その内容はどう判断すれば良いのか?
ふと、情報がレシピだったらと考えてみた。
その中身は、食材や調理法が中心になる。
食材も調理法もきっちりとレシピに従う必要はなく、アレンジは自由が利(き)く。
レシピの中ではあえて書かれてないが、食材は新鮮な方が良いはず。
賞味期限が迫っている食材がオススメとは書かれないだろうが、調理法として熟成させると表現される場合は当然新鮮ではない。
つまり、食材は基本は新鮮なものが良いのだろうが、食材によって一定の幅が許容範囲として存在するのだ。
つまり、情報にも賞味期限や熟成が当てはまるとするならば、どのように捉えれば良いのだろうか。
大学生が入社したい企業や親が子に勧めたい企業のランキングがマスコミではしばしば話題になる。
大学生が何を尺度にするかといえば、自分が入手した情報と自分のこれまでの人生経験で判断した価値観を尺度にするのだ。
親(大人)だって同じだが、情報にしても経験にしても時間の厚みが加わる。
一般的には亀の甲より年の功と言うように、経験の長さに基づく情報の方がアドバイス効果は高いとされてきたが、この諺は現代ではあまり説得力を持たないだろう。
諺が生まれた時代と今とでは寿命が違い過ぎるだろうから、年の功は老化や呆けの意味合いすら持ちそうだ。
昭和の頃だったら、企業の寿命は30年と言われていた。
それが時代と共にどんどん短くなり、上場企業ですら賞味期限は6〜7年と言われることもある。
この会社は有望だからおススメだよと言われた場合、実は賞味期限はすでに終了間近かもしれないし、すでに終わっているかもしれない。
同じ会社内でも部署が違えば共有するものが全くない社内企業化も増え、社外の人から見ると伸びてる企業として扱われるが、部署が違えば待遇等の実質は全く違うということすら珍しくない。
情報の短命化はますます加速し、個人の発言は発した瞬間に消えていく、その一方で発言が失言の場合はほぼ確実にどこかにアーカイブされ検索可能で消えることは無くなった。
情報の短命化が情報のジャンク化を示しているとすれば賞味期限を気にする以前に、腐った食材で美味しい食事を作ろうとしてることになる。
ジャンルを問わず、美味しそうに見える情報のほとんど(全てと言っても良いかもしれない)は、すでに腐っているから美味しくなりようがないのだ。
美味しそうな情報が欲しければ、砂金やダイヤの原石を探すような意識が必要になる。
ピカピカしてるからといって金やダイヤモンドというわけではないのだ。
しかし、金やダイヤの良いところは賞味期限などないこと。
期限やタイミングが要求される情報はシロウトが軽い気持ちで手を出すと火傷する。
特に最近の情報は、自ら雄弁に自己アピールするので勘違いしやすいが、金やダイヤのような情報は、とてもそうは見えない形で存在しているということを忘れてはいけない。