何が真実なのか分からない時代になった。
ありもしないことをさも真実であるかのように伝えるのはかつて週刊誌が得意としていた。
まだフェイクニュースなどとは呼ばれてない頃で、その当時はテレビや新聞が報じて初めて真実だったんだと認識されていた。
正しいことや真実は一つしかないと信じていた時代だった。
また、その頃はテレビや新聞はスキャンダルの取り扱いには慎重だった。
しかし、時代が流れると、世界中でフェイクニュースが溢れるようになった。
新聞は今でも慎重だが、テレビではスキャンダルネタは大好物のテーマになっているし、報道でも取り上げることすらあるし、様々な切り取られ方をして多様な番組で取り扱われる。
いつの頃からか、真実を追い求めるスタイルではなくなり、どうすれば儲かるか、あるいはどこに配慮することが得なのかを意識したスタイルへのシフトが露骨になった。
そうなると同時に取材力も低下し、フェイク以前に事実誤認も目立つようになってきた。
メディアの素人化が進むとともに、素人のメディア化が進んでいる。
隠れた真実を暴き出す真のプロフェッショナルなのはむしろ週刊誌の方にすらなっている。
よく情報化時代と言われるが、情報がすべて広告宣伝化しプロパガンダ的になっている。
正しいことや真実が複数ある時代になっている。
自然界には弱肉強食という基本があるが、それをもっと俯瞰してみると食物連鎖が見えてくる。
食物連鎖で捉えると、強い弱いと見えていた部分はすべて循環のプロセスに過ぎないことが分かる。
弱肉強食だと一方通行でピラミッド型の構造になるが、食物連鎖だと相互依存や共存共栄と通じる役割分担が見えてくる。
この食物連鎖の関係が人間という単独の種の中でも成立しているとすると、一方的な悪に思えるロシアと悲運のウクライナという図式にも違った意味が生じてくる。
その意味は、正しい間違ってると論じても意味はないだろう。
根も葉もないフェイクニュースに騙されないことは大事だが、そもそも真実は複数あるということも知っておく必要がありそうだ。
フェイクもプロパガンダも真実のバリエーションの一部なのだ。