昨日次の話を聞いて今日になって思った話。
【「時間芸術」を捨て去るのは"進化"か】映画やドラマ、アニメを「#倍速視聴」「10秒飛ばし」する習慣が広がる状況を、作り手はどう捉えているのか。「#プリキュア」「#銭天堂」の脚本を手掛けた小林雄次さんに聞いた。@kobayuji @Yutaka_Kasuga https://t.co/6EkaYo06Ei
— 現代ビジネス (@gendai_biz) 2022年4月24日
昨日の時点では『自分とは違うな』だった。
しかし、1日経って違う考えも芽生えた。
自宅や職場や学校など一般的に多くの時間を過ごす場所以外の場所を、第三の場所(サードプレイス)と呼ぶ。
第三の場所は、人の数だけある。
単なる通過地点や、ちょっと立ち寄っただけの場所から、お気に入りの場所や秘密の場所など、定義も人の数だけある。
時間や空間を共有する人が他にいるからといって、想いも共有してるとは限らない、いやむしろ共有できることは少ないはずだ。
第三の場所だからといって過ごす時間が短いとは限らない。
引用したツイートの記事を読み、第三の場所には場所というよりも空間と呼んだ方が相応しいものも含まれると感じられた。
スマホやタブレットやPCなどの中の世界も第三の場所になっているとすれば、通信が可能な場所ならばどこでも第三の場所になり得るだろうし、自分の世界に没入したいならば通信は絶対的な条件ですらないだろう。
第三の場所が居場所として機能するためには、そこで過ごす時間がお気に入りであることが大事になる。
良い悪い、正しい間違ってるなどの他人目線の価値判断とは馴染まないはず。
だから、居場所として機能する第三の場所には、その人独自のマナーや作法や理由が存在するのだ。
『自分とは違う』なんて大きなお世話なのだ、きっと。
他の誰とも違っていて構わないのだ、迷惑を掛けたり犯罪でさえなければ。