東日本大震災が起こる少し前の2011年2月に岡田斗司夫さんが評価経済社会というタイトルの本を出版し、これからの時代は評価が重要になると説いた。
そんな岡田斗司夫さんは、その後80人の女性と交際し愛人にしていたと報道された。
そしてその報道の中で、その80人を評価しランキング化させていたとも報じられ世間をドン引きさせたことがあったが、このことで岡田斗司夫さんの評価が一時的に下がったが、『やっぱり主張する内容には共感できる』という声は根強く、現在でも一目置かれる論客の一人だ。
久しぶりにこんなことを思い出したのは食べログの騒動を見ていてだ。
「食べログ」がチェーン店を不利に扱ったかが争われた訴訟はチェーン店側に軍配。グルメサイト運営のブラックボックスぶりへの不満があった中、裁判所がこれに応えたことで透明性を求める圧力は強まりそうです。https://t.co/8MfDG08AKi
— 日本経済新聞 電子版(日経電子版) (@nikkei) 2022年6月16日
今朝のテレ朝系のモーニングショーで、長嶋一茂さんや玉川徹さんが共に『自分は食べログの評価なんて気にしない、でも世間はその評価で動いているんですね』と言っていた。
改めて評価経済社会について考えてみた。
従来型(昭和的)の評価が、直接知ってる誰かの実際の経験や体験に基づくものであったり、信頼信用できる第三者やメディアが発する情報に基づく評価だったのに対し、
現代の評価は、見知らぬ誰かや匿名の誰かの情報に基づいての評価が増えているのだ。
匿名の情報であっても、ブログやSNSのように過去に遡って他の発信も見れる場合、そこには人格や個性は見えてくるし、無理に作っている場合はなんとなくその雰囲気を感じ取ることもできる。
しかし、人格や個性と紐付かないただの評価の寄せ集めをさらにアルゴリズムで評価するというところまで至ったところで疑問やケチが付いたのが食べログだ。
食べログのように評価が公開されると、飲食店は一喜一憂することになるし、評点がちょっと変わるだけで売り上げが大きく変わるということは、常連客に支持されてる店ではなかったということなのだろう。
同じようなことは、人物評価でも起きてるはずで、こちらは公開されることはないはずなので、自分自身にどのような評価が付いているか、その評価は妥当なのかということすら知ることはできない。
そう言えばと思い出したのが次の話。
浪人はもう当たり前じゃない? 駿台「役割終えた」首都圏の校舎閉校https://t.co/RWp1LVCjM2
— 朝日新聞デジタル (@asahicom) 2022年6月12日
大学入学共通テストを受験した浪人生は、ここ10年で3割減りました。
予備校大手は校舎の統廃合を加速させています。
「1浪、2浪は当たり前」だった大学入試に、何が起きているのでしょうか。 pic.twitter.com/e5gsNI1oLm
最初は費用やコストの問題で、あるいは少子化が影響して、浪人が敬遠されてると感じたが、もしかしたら履歴書的にプロフィール的に浪人したという事実が歓迎されない評価につながる風潮が浸透し始めてるのだろうかと勘繰っている。
気にしない人はまったく気にしないだろうが、気にする人はとことん気にするのが評価。
気にする評価とは、どんな評価がされてるかということで、その評価には自分は関係してないということが重要。
つまり、評価を意識することは、確実に評価依存症への道を歩むことになるのだ。
自分で決めるという簡単なことが、最も難しいことになるのだ。
評価依存症には日本特有のガラパゴスの匂いが漂っている。