あの手この手で広告宣伝することが問題になる時には、そこにウソや騙しがある場合が理由である。
良し悪しを別にすれば、騙すことと騙されることは、双方向のゲームの結果顕在化することであり、知恵比べの結果起きてることで、一方通行で終わる場合には問題はあっても潜在化する。
虚偽・誇大な宣伝が横行、アフィリエイトに規制…「広告」と明記求めるhttps://t.co/HyC0pMWSJQ#政治
— 読売新聞オンライン (@Yomiuri_Online) 2022年6月25日
一般人が商品の感想を述べたブログなどと区別がつきにくいものがあることから、広告主に対し、「広告」と明記するよう求めた。近く公表し、企業などに周知する。
この記事では、個人が発する情報が、自身の体験や経験を通じての実感とは違うことを、あるいは体験や経験すらしてないのに、さも体験経験したかのように誤解させることを取り上げている。
広告宣伝が、買わせるためになりふり構わないというのは昔からで、時代と共にその洗練度を増した結果、広告関連企業が直接騙すことに加担し辛くなったために、騙す役目を下請けとして雇用関係がない個人へ移したのがアフィリエイトなのだ。
広告宣伝を巡る問題は、スポーツにおける採点競技の問題と似ている。
球技のように得点を競ったり、走る競技のように順位やタイムを競う場合には勝敗の客観性が明確だが、これが美しさを競う競技や本来は明確に決着がつくはずの格闘技が判定にもつれ込むような場合には疑惑が付き纏うことは珍しくない。
競技によっての違いはあるが、判定をする採点員が多い競技の場合は最高点と最低点を外した残りの平均点を採用するというケースもあれば、格闘技のように開催地(現チャンピオンに由来する地)有利というケースもあり、ボクシングのホームタウンディシジョンが有名。
大衆の面前で公開されてる明確にルールが確立しているスポーツですら、判定の必要が生じるあらゆる場面でいつでも間違いや疑惑は起こる。
それらの中には明らかな故意や悪意を感じさせるものも少なくない。
今シーズンの開幕序盤には、ひとつの大きな事件があった。4月24日のオリックス-ロッテ戦で、球審を務めていた白井一行審判員がロッテの佐々木朗希投手に「詰め寄って」注意をしようとした一件だ。注意をする必要があったかどうか、それがルールに則っているかという点もさることながら、白井球審の態度について大きな批判が集まった。
審判に権限が無いと、競技は無秩序化する可能性は大になる。
選手は勝ちを得るため、得点を得るためにギリギリのプレーをするのだから。
一方で審判が権限を過剰に得ると、プレイヤーのプレーは萎縮する。
スポーツの場合の当事者には、プレーをしている選手やチームと審判員以外にファンや観客も含まれる。
アフィリエイトの場合の当事者をスポーツに照らし合わせると一体どこに該当するのかが微妙なことに気付く。
アフィリエイトをしてる人がどこに該当するのかが分かり辛いのだ。
プレーをしてる選手ではないし、審判でもない。
居場所を考えると、フィールド内ではなくむしろ客席側にいるように感じる。
客席側にいるからといって応援してる印象は受けない。
スタジアムで観戦すると気付くことに、酔っ払って大声で野次を飛ばしてばかりの人がいることがある。
応援してるというよりもdisっていて、周りを不愉快にしたり失笑を買ったりするだけなのだが、たぶん本人はストレス発散するかのように気持ち良いのだ。
アフィリエイトとは、スポーツに例えるならスタジアムで野次を飛ばしてる人なのだと思うと妙に納得できる。
試合そのものの展開が詰まらない時には、スタジアムの野次の方がよほどおもしろいということは残念ながら少なくない。
料金を払ってスタジアムに来た客が、元を取ろうと思う気持ちがある限り、野次を許容する余地はあるのだ。
アフィリエイトは広告というよりも野次なのだ。