テクノロジーの進化は時間と距離の関係を短縮させるためだったと言えるだろう。
陸上では、徒歩や馬車から自動車や鉄道、そして航空機と進化した。
海上に関しては船そのものの進化以外に気象の把握の進化や運河の建設なども関係するテクノロジーとして貢献している。
また、少し毛色が違うものに宇宙やロケットという分野もあるが、共通点としては実現は物理的に可能な範囲と括れるという意味では、物理的なリアリティが追求されてきたと言えるだろう。
物理的なリアリティには嫌でも実感が付き纏う。
実感は、身体(=非自律神経系)が感じるもので、身体が感じるから脳や臓器などの自律神経系へ伝わるが、自律神経系の反応は非自律神経系ではコントロールできないので実感は得られない。
新しいテクノロジーとしてバーチャルや仮想がキーワードとして定着してるが、それらが進化するに当たって問われるのは、物理性や身体性が感じさせる実感が本当は存在してないという現実だ。
なにやらややこしい話に感じるかもしれないが、バーチャルリアリティは必ずリアリティの壁にぶつかるであろうということだ。
例えば筋トレを例にすると、
リアルな世界では身体に負荷をかけることがトレーニングとなり筋肉が発達する、それが筋トレだ。
バーチャルや仮想の中では、実際には自分の身体に負荷はかけないが、映像などで自分自身が負荷をかけたトレーニングをしてる姿、ハアハアゼーゼーしてる姿も見えるかもしれない、そんな姿だけがダイレクトに脳内に取り込まれるのだ。
実際には、なんのトレーニングもしてないのに記録上はトレーニングしたことになるという仕掛けだ。
一つ区別したいのは、モチベーションを高めようとVRゴーグルを掛けて物理的なトレーニングをすることは従来型のトレーニングになるということ。
その結果、筋肉は発達するだろうか?
身体のパフォーマンスは向上するだろうか?
そこはまだ未知だろうし、もしなんらかの効果が認められた場合は、おそらく催眠術でも同じことは可能になるのではと感じる。
バーチャルや仮想に実感を感じる場合の実感とは、限りなく錯覚なのだ。
写真をデータとして保存して画面上で見ることと、プリントアウトしてアルバムに整理することと、プリントアウトした写真をコルクボードにでも貼って部屋にディスプレイすることの差だと考えると、大した違いじゃないように感じるが、実感という意味では大違いなのだ。
これはプリントアウトしてディスプレイしてる人は分かってるはずだ、同じなら余計なひと手間をかける価値はないのだから。
この一手間でバーチャルな存在がリアリティや実感を持つのだから。
内容が同じならば、本とネットは甲乙つけ難いレベルになってるような気はするが、著者に対する親近感もリアリティだとするならば、本とネットは逆転しててネットに分があっても不思議はない。
『VR=バーチャルリアリティ』であるために、バーチャルとリアリティが言葉上は同義語みたいな印象を醸し出すが実際には意味は正反対だということを忘れてはいけないだろう。
新しい何かを始める場合には、実感やリアリティを重視すると大きく判断を誤ることは減るはずだ。