推理小説というジャンルに目覚めたのは小学生の高学年になってから。
最初は主人公に惹かれて。
明智小五郎、アルセーヌ・ルパン、シャーロック・ホームズなどと。
それらのシリーズを読むうちに著者の方に興味が移るが、わたしの場合海外ミステリーには向かわず日本語に限られていた。
シリーズを買い漁った著者を時系列で記すと、
最初は江戸川乱歩や松本清張で、
その次に森村誠一が加わり、
その後西村京太郎、
そして内田康夫へと移って行った。
お気付きのように、テレビドラマや映画とリンクしてるのだ。
その後、東野圭吾へと移って行ったが、東野圭吾さんがテレビや映画の人気者になる前のマイナーな頃にその存在に気付いたのは密かな自慢だった。
思い出が語りたくて書いているのではなく、次のツイートを見てちょっと振り返ってみたくなったのだ。
どうも世間に流布する「絶版本」の感覚のヌルさと感度が合わないんだよなあ。世界はフローの新刊流通本よりストックたる絶版本の方が圧倒的多数を占めるのは物理的に考えても当たり前の話である以上新刊書店にならぶ本なんて書物の世界においては人体でいや「伸びた爪」くらいなもんですよ。
— Mochida Yasushi (@lotushouse) 2022年7月15日
自分のことを振り返ると、このツイートの通りだと思う。
東野圭吾さんの存在に気付いたのが20年以上前だが、それ以降シリーズを読破するような著者には出会っていない、というかわたし自身が求めなくなった。
わたしがこれまで読んできた本はすでにかなり古い本ばかりだが、いまだに本屋では新しい版で書棚に並んでいる、つまり売れるからだろう。
買ってる人の中に若い人はどのくらいいるのだろうか?
買ってるとすれば求めてるのは何なのだろうか?
似たようなことは車などにも当てはまる。
絶対性能としては時代遅れなのに、今の車にはない味があるという理由で新車販売時の価格を大きく超えるプレミアム価格で売れている、もちろん中古だし部品の入手だって苦労するのに。
このような分野はノスタルジー市場などとも呼ばれるが、そうだとするとストックだが、温故知新ならばフローとも言えるのだ。
今現在が重視されるとストックはただ通り過ぎた過去にしかならないのでフローに分があるが、テクノロジーやノウハウに関しては積み重ねた過去をきちんとストックし理解できてる人は、トラブルシューティングのようなピンチの時には最も頼りになる。
時と場合によるが、経験や体験は最強のストックとなるはずだが、困った時には取っ替え引っ替えのフロー化が当たり前になった現代ではそのありがたさは軽視されるばかり。
みなさんはフローを重視しますか、それともストック重視ですか?
参考までにGoogleTrendsで2004年以降の検索レベルでの推移を比較すると、