太っているのに『自分は標準だ』と言い張る人は多い。
一方で、全然太ってないのに、むしろ痩せてるくらいなのに『自分は太っている』と思い込んでる人も多い。
持ってる美学や美意識の違いであるとともに、被害妄想や同調圧力も大いに介入してると自分や他人を見ていて感じる。
世の中に数多く存在する調査の中には、真実を知るためには全く役に立たないが、商売やビジネスには都合が良い調査が溢れている。
行動につながる動機は、理論や理屈よりも気分に大きく影響を受ける。
理論派、理屈派の人でも理論や理屈を踏まえた上で最後のひと押しは気分に頼ってるはず。
調査の多くは、真実や実態を知るために行われているようで、実は気分を誘導するために行われていると考える方がしっくり来ると思ってる人は少なくないはず。
それなのに被害妄想や同調圧力から離れられないのが気分の恐ろしさだ。
気分もいわゆる空気の一部で伝染性が強い。
このように考えると、人の気分に敏感になれることが、何かを企てたり仕掛ける場合には必要不可欠だと分かる。
さらに言うと、動機につなげたいならば、不安や不満や嫌いという感情を煽る方が効果的でもある。
なぜ胡散臭い宗教が、胡散臭いことを誰もが知ってるのに、信者を集め献金を集めることができるかというと不安や不満や嫌いを煽って巧みに核心を突いて攻めて来るからで、そんな宗教の特性を利用し持ちつ持たれつの関係が政治だということが、例の暗殺事件以来続々と発覚してるのが今の日本。
政治家の不安や不満や嫌いは全て政策などに関してではなく、次の選挙での票の獲得に関してなので、もし票を獲得することに良い政策が有効ならそういう行動を取るのだろうが、日本では良い政策を考えるよりも宗教に擦り寄ってる方が確実に票につながるという伝統が長いからだし、そのためには投票率が上がっては不都合なのだ。
政治(この場合は与党)にとっては、不安や不満や嫌いに加えて、投票率を上げないためには政治に対する無関心の演出も重要になる。
無関心にさせるためには、『何だかよく分からない』とさせれば良く、実際の政治はまさに何をやってるのかが良く分からない。
同じ理屈はマスコミやメディアにも当てはまるが、こちらは関心を煽るのに躍起になる点が大きな違い。
不安や不満や嫌いに関係することは詳しく知りたいという心理に、被害妄想や同調圧力を掻き立てられると、人は中毒や禁断症状に似た状態になり抗えなくなるので、それによって関心を煽られるのだが、煽った結果儲かりさえすれば良いだけなので、主義主張があるわけでもなく、もちろんテーマも希薄なので関心を集める力がますます弱くなっている。
美学や美意識が関係してそうなことの多くのどこにも美学や美意識が見当たらないのが現代の特徴かもしれない。
美学や美意識はどこに行ったのか?
貧すれば鈍する>武士は食わねど高楊枝、だろうか。