論破といえばひろゆきが有名で論破王とも呼ばれる。
論破王なんて呼ばれるもんだから、さまざまな方面から挑戦者が現れ、ひろゆきを論破しようと挑まれている。
論破とは文字通りその論は成り立たないと見破ること。
展開されてる主張に矛盾があることを指摘したり、展開されてる事実関係に間違いがあることを指摘することで、論破することが王道だが屁理屈も意外と有効だ。
結局勝つのは、その戦いを見てる観衆の心を掴んだ方になる。
つまり、数学や物理のような客観的な厳密さとは違い感情的な要素が大いに介入する。
エビデンスや証拠を織り交ぜながらも、展開されるのは感情論になるという意味では多数決に似てるが、論破は強く感情を押さえてる分だけ多数決よりも強い気持ちで支持を受ける。
ひろゆきが論破王として君臨できるのは支持者が多いからであって、論が完全無欠というわけではないのだ。
そしてバカにできないのがアンチの多さで、アンチは論破してやろうと一挙手一投足を見守るのでフォロワー化し、まるで熱烈な支持者と見分けが付きにくいのだ。
内容はどうであれ論破された人は、論破した人を敵視するようになるという後腐れが起きるはず、それが感情だ。
論破されたように見えても後腐れが起きない場合は、論破ではなく説得効果があるから。
説得されるというのは、納得することであり、そこには共感すら生まれるだろう。
つまり似て非なる論破と説得の間には見えない大きく高い壁があるのだ。
学生であろうと社会人であろうと、自分の考えや意見を披露する機会は多く、その行為はプレゼンテーションと呼ばれる。
自分の考えや意見を披露する際には、知らず知らずのうちに武装する。
武装の仕方や程度によって展開される論は、論破を目指すものになったり、説得を試みるものになったりする。
証拠やエビデンスで武装したからといってプレゼンテーションは成功するわけではない。
相手の心を動かして開かせられなければ結局負けになる。
武装の仕方にも北風と太陽があるのだ。
今読んでる『ストーリーが世界を滅ぼす』にはそう思えるような話も出てくる。
この本は遅読が向いている。