違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

コミュニケーションの憐れ

コロナ禍でより一層浸透したコミュニケーションにオンラインを駆使したリモートがある。

 

日本では、これで十分じゃんという声が多いように感じる一方で、世界に目を向けるとこれじゃあダメだという声がITの最先端を行く巨大企業から上がる。

 

コミュニケーションが、必要なことを伝え合うだけならば対面であることは必ずしも必要ないということは人間は手紙や有線電話ですでに経験済みだ。

 

ただ、手紙や電話でのコミュニケーションが意図した通りに機能するためには人間関係の成熟が必要だ、年齢という意味ではなくコミュニケーションの質としてだ。

 

前提となる基準や共通のことばや表現が成り立ち、思ってることが共有できるという実感が成立してなければいけない、それは信頼関係であり思いやりでもある。

 

逆にいうと、このような関係が成立してなければ手紙や電話を含めてオンライン上のコミュニケーションは決して交わらない一方通行で終わっても不思議はない。

 

反社や半グレ集団の幹部同士だとオンラインのコミュニケーションは成立するだろうが、幹部と部下のコミュニケーションは怪しいはずで、部下のレベルが下がるほど対面で恐怖を与えることセットじゃないと多分機能しないはず。

 

なによりも幹部がそのことを実感してるだろうし、それは部下のことを微塵も信用してないからだ。

 

自民党の幹部議員が新人立候補者を統一教会の事務所に連れて行って演説させたのもそういうことを感じさせる。

 

密度の薄い関係性はどんどんオンライン上にシフトし、それは効率的だとか生産性が高いと呼ばれるのだろうが、そもそも生産性が期待できないコミュニケーションだというボタンの掛け違いがそもそもの発端だ。

 

それに対して悪企みや高い秘匿性が求められるコミュニケーションは一堂に会してのコミュニケーションしか成立しないはず。

 

同じ理由でバーチャルのコミュニケーションも所詮どうでもいいコミュニケーションでしか成立しなさそう。

 

オンラインやバーチャルに置き換わると便利だなと思えるコミュニケーションの99%は、おそらく無くした方が良いコミュニケーションのはず。

 

 

上記の文とはちっとも結びつかないのだが、テレビで甲子園の聖光学院対仙台育英の2回の表の展開を見ながらコミュニケーションの憐れを感じていた。

 

すぐ目の前にいるのにコミュニケーションがまるで機能してないと感じたが、それは彼らが善なる存在だからのような気も受けていた。