統一教会の被害が後を絶たないのはなぜか?
『統一教会』の部分はさまざまなワードに置き換え可能だ。
『宗教』でも成り立つだろうし、『詐欺』でも成り立つし、『報道』や『ワイドショー』や『広告宣伝』もありだろう。
被害を自他ともに認めざるを得なくなると、『騙された』『裏切られた』と言い出すようになる。
これは非合法なことや犯罪だけではなく、合法的な受験や教育や雇用や待遇や資格に関連しても起きる。
一体何に、あるいは何を、騙され裏切られるのだろうか?
それは信用したことだ。
信用や信頼に騙され、信用や信頼を裏切られ、また逆に信用や信頼を裏切るという双方向性が必須となり成立する。
具体的な事例やケースはさまざまだろうから一口には語れないが、共通する心理は単純明快で格言にもなっている。
信じる者は救われる。
信じさせたら儲かる。
聖書の教えとされ、信じる対象はイエス・キリストの言葉。
やっぱり宗教かという思いと、yes、noのyesってイエス・キリストが由来かなと思ってしまう。
同じようなことを思う人は他にもいるようで調べてみるとどうやら違うらしいが、深層心理には影響してそう。
さて、救われたいと願い一生懸命信じたものは何だったのかというと、教えとして提示される答えだろう。
提示された教え(=答え)をただ信じて行動することは気持ち良いのかもしれない、親に反抗することを覚える前の子供のような状態に近く、信じることと愛し愛されることとは似ているのかもしれない。
しかし残念ながら、信じるから騙されるし、信じるから裏切られるのだ。
運転中であろうが歩行中であろうが、青信号を渡る時でもきちんと左右を確認する人は、騙されることは少ないはずだ。
そういう習慣が付いてる人は、自分が考えたり思いついたアイデアにもいつも疑問の目を向けるだろう。
信じられるのは疑った後で何度も何度も確認してからでないと成立しないと経験を通して知っているからだ。
今日の教訓
信じる者が騙される!
信じることは、無条件であってはいけない。