違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

情報という撒き餌

AIの登場以前から進んでいた機械化、自動化、コンピュータ化は、製造業の現場で作業する方の手先の器用さや几帳面さや丁寧さといった極めて個人的な資質に依存して成立していたことを汎用化させることに成功した。

 

この資質は慣れや熟練とも呼ばれるので、そういう世界では若い人よりも年配者の方が腕も経験も遥かに上で、その場合体力ですら負けてはいなかった。

 

しかし、機械化、自動化、コンピュータ化は、どうせ誰がやっても大して違わないなら若い方が人件費が安い分だけ得だという価値観を企業経営に定着させた。

 

 

大企業から始まり、中小零細でも平成にはこの流れにどっぷり浸かってしまった。

 

そのことによって、手先の器用さや几帳面さや丁寧さに依存しないと成立しないことは極々一部の作業になり、その作業をこなせる人は特殊技術の持ち主という極々少数になった。

 

圧倒的に大多数は、誰でもできる、誰がやっても結果が同じ業務に勤しむことになるし、そもそも頑張ってもその程度のことしかできないというのが現実だ。

 

ここで適性を欠いていると判断されることは人間失格の烙印を押されることに等しくなる。

 

工場を例に挙げたのは分かり易いからであって、同じことは小売りやサービス業の世界でも進んでいる。

 

 

しかし、そこから抜け出すためにするのは情報に踊らされるだけだ。

 

結果、多くの人は自分にしかできないオリジナルを夢想し、クリエイティビティを発揮させたいと脳内で夢想するようになるので、自分の日常生活には大いに不満を持つ。

 

 

今の自分は本当の自分ではないと思っていても、そこから抜け出そうとするための手段は人材企業への登録くらいのもの。

 

だから、見栄えの良い職務経歴やプロフィールの演出に頼りたくなるが、その方法にオリジナリティを発揮することはなく、有効と思われる方法を教えてもらおうとしたり、関連する情報を買うことで解決できるのではという方法しか選択できなくなる。

 

 

大衆のそういう心理を知っている者は、巧みに撒き餌をばら撒き獲物が引っかかるのを待っている。

 

撒き餌は餌である必要すらない、本物だろうが嘘や偽物であろうと関係ない、撒いた後は何を撒いたかはもうどうでも良いことだから。

 

撒き餌に集まった獲物が針に引っかかるのを待つだけだ。

 

 

現実社会に目を向けて考えると、撒き餌は情報という形でばら撒かれるが、その周りには針や網も仕掛けられている。

 

運よく餌だけにありつければ獲物側の勝ちだ。

 

 

撒き餌は、撒く側に一日の長が求められる。

 

一日の長は、知識や経験を含めた知恵で、巧みな知恵ほど悪知恵になりがち。

 

 

撒く餌の種類で、集まる獲物の種類が変わるからだ。

 

獲物の行動や習性を理解する能力が、撒く側には求められる。

 

 

撒き餌が情報ならば、撒いた側はどんな獲物を想定してるのか、あるいは実際に集まる獲物はどういうタイプなのか、そういうことに思いを馳せながら楽しみたい。