違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

需要と供給とコストパフォーマンス

対で使われセットで表現される概念の一つに需要と供給がある。

 

分かり切った話だし、そのことを考えたからといって今更新しい何かが得られるようにも思えないなと思っていたが、実際に考えると意外と奥深いというか趣深さが感じられた。

 

需要と供給は、別の表現をすると限りなく売買に近い。

 

漢字で表現するとことばの並び順が違うが、需要に対応するのが買で、供給に対応するのが売になる。

 

現実の生活を考えると、全ての人はどんな立場であろうと買う側の立場ではあるが、だからと言って必ずしも売る立場であるとは限らない。

 

何らかの仕事をしてる人ならば、その活動や行動が金銭的な評価に置き換わると言う意味では売っている立場なのだが、そういう自覚を持っているとは限らない。

 

売ってるという自覚がないまたは乏しいというケースに加えて、実際に何もしていないというケースも少なくないので、そういう人は供給ということを自分事としてイメージしづらいかもしれない、そういう人たちは供給側の立場の人の心理をどこまで理解できるだろうか?

 

 

需要と供給をセットで考える場合は、経済学と数学がセットになりがちだが、それ以上に大事なのが心理学になる。

 

需要と供給を事業として捉えると、売買の当事者は複雑化する。

 

供給側には資金調達役として金融機関や投資家が絡んでくるが、金融機関や投資家は需要側に金を売って利息や配当を得るのが目的という意味で売りの親玉になるが、それは需要側にはどうでもいい話。

 

一方で、需要側に手持ち資金が不足する場合は、やっぱり金融機関が登場する、この場合おもしろいのは、需要側がただ欲しいものを買うための場合は投資家は出てこない。

 

代わりに登場するのは、金融機関ですらない闇金を始めとするブラックな存在だ。

 

ただこのブラックな存在は、需要側が自分から近づくから接点ができるケースがほとんどになる。

 

何もないところに近づくのではなく、撒き餌が撒かれているからなのだが、分かりやすく言うと騙されるのだ。

 

 

需要と供給の間には、昔だったら問屋(今でもあるが弱体化している)、最近だったら転売屋が何重にも介在することもある。

 

いかがわしさがありながらも問屋や転売屋が成立するのは、現金取引だからで、つまり供給側が資金繰りで課題を抱えているからでもある、供給側にとっては誰が買うか、つまり需要がどこにあるかはどうでも良いというのが本音なので、現金化が早ければ誰でも良い。

 

だから足元を見られるのだが、問屋や転売屋には時代を読む高感度な目が必要になり、それが機能してれば需要は絶えないが、目が曇ってくるとあっという間に破綻する。

 

供給されるものには、食べ物でなくても、腐ったりしないものであっても、賞味期限があるので在庫はリスクになる。

 

供給側はできるだけ早く売り切る必要があるので、需要側の購買心理を煽ることと、財布の紐を緩ませるための価格設定という二つの心理戦に勝利しなければいけなくなる。

 

そのために発達したのがマーケティングだが、発達すればするほど陳腐化し、挙げ句の果てには騙す方が手っ取り早いとなり今がある。

 

 

供給側にとっては、ハイスペックな最新のもの以外は役に立たないという世の中になれば嫌でも買い替え需要が絶えなくなるが、世間の風潮は『これ以上のハイスペックには意味がない』と考える人も増えていることを考えると、そんな心理を読み取った上で落とし所をどこにするのかという高度な心理戦が展開されることになるはず。

 

 

価格は需要と供給が一致するところで決定されるという古典がもてはやされた頃の供給とは、おそらく闇雲に作れるから作っただけのもの。

 

需要側の心理には時代を経ても大きな変化ないように感じる、結局欲しいと思えなければ購買動機は弱いままになる。

 

それに対し現代の供給は、『これをこの価格で作れば売れるはず、売れて欲しいな』と需要側に歩み寄ってるものが大半のはず。

 

 

需要と供給と価格は、三位一体でコストパフォーマンスを形成してるのだ。

 

 

だとすれば、コストパフォーマンスは心理学の領域なのだ。

 

 

売れないものはコスパの魅力が薄いのだが、売れないからと言って価格を下げても喜ぶのはレベルの低い転売屋だけなのだが、そういう転売屋はそれに相応しい需要を持っているので世の中は回っていく。