野口悠紀雄さんの記事が出ていた。
iPhoneは高嶺の花、気がつけば「プア・ジャパン」、日本人はビッグマック410円の貧しさを知らない
このままの事態が続けば、日本人には高くて手が届かないものが続出するだろう。「舶来品」という言葉は、長らく死語となっていたのだが、それがよみがえるかもしれない。
この話を読みながら思い出した話がある。
昔が良かったという話ではなく、発展途上を抜け出してさらに上を目指そうとする場合に、上位と競う場合に何が武器になるかという話であり、一度自分を上位に位置付けて分不相応に自意識が芽生えるとその後どうなるかという話。
バブル景気の1989年にトヨタがセルシオを出した、輸出名はレクサスで、今と違いレクサスと呼ばれたのはセルシオのみだった。
すでに名声と評価を勝ち得ていたベンツのSクラスやBMWの7シリーズの牙城に真正面から対抗するために作られたのがセルシオだった。
しかし、この車を世界で最初に評価したのはヨーロッパではなくアメリカで、それもヤッピーと呼ばれていたヤングエグゼクティブだった。
若くして金持ちになった彼らの価値基準はコスパが高いかどうかの一点だけで、保守的な層がこだわる歴史や伝統などは全く評価しなかったのだ。
レクサス(=セルシオ)を評価したヤッピーからすると、ベンツのSクラスはただ単にコスパが悪い車で、BMWの7シリーズは故障しやすい車としか映っていなかったのだ、あくまでも90年代初頭の話だが。
バブル景気だったとは言え、当時の日本のメンタリティは明らかに挑戦者だったのだが、この後ごく短期間の間にメンタリティから挑戦意識が消え、代わりに尊大な自意識が高まり出したような気がする。
コスパの良さが持ち味だったはずなのに、それよりも歴史や伝統を錯覚するようなブランド物語を露骨にありがたがるようになった。
新興の成り上がり企業が、細々と経営してる伝統企業を買収して、全部が伝統を身に纏ってるかのように振る舞うというのが日本型の企業買収には多いように感じる。
コスパが良いか悪いかは極めて個人的な価値基準だが、ブランドとしての歴史や伝統を評価するということは他人の目を意識するということでもある。
SNSがこの傾向をさらに強めてるのは明らか。
何をしたいか何をするかよりも、何を持っていて何を使うかの方に関心が向ってしまうのだ。
この違いはコミュニケーションに大きな障害をもたらすことは明らかで、お互いに少なくとも心の中では相手をバカにするはず。
スマホといえばiPhone一択という日本人はとても多いが、その理由はというときっと残念この上ない人が多いのは日本の大きな特徴でもあるような気がする。
iPhoneを使ってるという一点でしか自分をアピールできない人は日本人には多いのだ。