最近、ちょっと目を離したり、よく見てないことが原因で起きる子供の不幸な事故や事件が目に付く。
これまでにはあまりなかったことが立て続けに起きているのか、それともこういうことはこれまでも珍しくなかったのか、がよく分からない。
本当はこれまでも珍しくない頻度で起きていても、報じられることが少なかったとすれば大衆が知ることはないし、報道されたとしてもローカルニュースにとどまれば全国共通の認識事にはならない。
こう言うことは一事が万事に当てはまるのかもしれない。
氷山の一角ということばを思い出す。
海面から露出してる氷山は氷山全体の約10%で、氷山本体の90%は海面下に存在してるので地上や船からでは見えない(つまり気づかない)。
別の表現をすると、氷山の場合は、顕在化するのは10%に対して潜在化するものが90%となる。
見えたから知り、知るから反応が生まれる、一方で見えなければ知らないので何の反応も起きないまま。
パーセンテージで示される数字が正確かどうかはさて置き、顕在化することよりも遥かに多くのことが潜在化するというのはほぼ全てのことに当てはまるとすれば、自分自身の外側で起こることだけではなく、自分自身の内側で起きてることにも当てはまるかもしれない。
記憶するのが苦手だと感じる場合、本当に記憶できてない場合と、記憶できてるのだがそれを顕在化できない(記憶を呼び出せない)場合がありそうだ。
潜在化した記憶の顕在化がスムーズでないことを健忘症と呼ぶと、記憶の潜在化はますます進みそうな気がしてくる。
夢や希望や願望のようなものは、脳内では100%顕在化してると思いがちだが、これにも氷山の理屈が当てはまるとすれば、自分自身の夢や希望や願望ですら10%程度しかきちんと認識できてないと言うことになる。
そのように考えると、夢や希望や願望を実現できる人とそうでない人の違いは、そもそもの夢や希望や願望の総量が違い過ぎるのだ、と思えてくる。
これは、努力の違いや才能やセンスの違いですらない、なんの制約も受けないのだから。
自己実現できる人が自己実現する前の段階では、詐欺師呼ばわりされたり、ホラ吹きだと言われることが多いのは、顕在化してる夢や希望や願望が大きいからで、それは単純に夢や希望や願望の総量が大きいからに過ぎないのだ。
だとすれば、重んじるのは質より量という仮説が成立する。
量より質を重んじた結果、自分自身の夢や希望や願望という氷山が大きく育たず小さなままだとすれば、氷山になりたいのに流氷にしかなれないし、気が付いたら解けてしまってるということにもなりかねない。
Twitterを見てると、量をより重視する人と、質をより重視する人は、相容れないことがよく分かる。
しかし、質と量は本来的に対立する要素なのだろうか?
Twitterを見ていてふと思ったのが、質と量を天秤にかけるような議論が起きる場の当事者に感じられるのは、そもそも論として動機やモチベーションが曖昧で、少しでも楽だったり効率の良さを基準に選ぼうとする場合の言い訳のような使われ方をしてるな、ということだ。
この傾向は指導的な立場の発言にも感じられる。
以上の展開をまとめると、最も大事なことは動機やモチベーションが明確で明快であること。
次に大事なのは量。
この二つが揃えば、環境に応じて質は自ずと付いてくる。
属してる環境に馴染まないことを質の違いと取り上げても不毛なだけ。
質論が白熱するような場合、おそらく根本問題は出発点の動機やモチベーションにあるのだ。