2019年3月、イチローが引退する時に言ったことばの一部。
知ったのはつい最近。
※太字にしたのはわたし
「2001年に僕はアメリカに来たが、2019年現在の野球はまったく別の違う野球になりました。まぁ、頭を使わなくてもできてしまう野球になりつつあるような……。選手、現場にいる人たちはみんな感じていることだと思うんですけど、これがどうやって変化していくのか。次の5年、10年。しばらくはこの流れは止まらないと思うんですけど」
「本来は野球というのは……これダメだな。これ言うとなんか問題になりそうだな。頭を使わなきゃできない競技なんですよ、本来は。でもそうじゃなくなってきているのが、どうも気持ち悪くて。ベースボール、野球の発祥はアメリカですから。その野球がそうなってきているということに危機感を持っている人って、結構いると思うんですよね」
スポーツの世界にデータ分析という概念が持ち込まれて威力を発揮し始めたことを一般人が理解し出したのは比較的最近かもしれない。
バレーボールで監督がiPadを手に持ち、直前のプレーに対する分析が即座にiPadに反映されて次の指示を出すのがテレビなどで映されているのを見出した頃かもしれない。
実際の分析の多くは裏方で行われ一般人の目に触れることは少ないが、プレイヤーが現場でしてるプレーの多くは独自の判断に基くプレーではなく、分析の結果事前に指示されていたプレーが中心になってるのが現代なのかもしれない。
似たような話をレースに関して聞いたのが80年代後半から90年代前半だったように記憶している。
当時は分析という言い方はされずに定量化と呼ばれていたような気がする。
大昔、レースが始まってから長い期間、レーサーに要求される資質で重要視されていたのは自分の命などどうでも良いかのようなクソ度胸や勇気と言われていた。
エンジンのパワーに対してプアな車体やタイヤで直線ですら真っ直ぐ走らせることが困難だったからだ。
しかし、80年代頃から最も速いマシンは最も運転しやすく、それはレーサー以外が運転してもだ、と言われるようになった。
そうなったのは分析とそれに基くフィードバックへの対処が短期間に膨大に加えられたから。
それらの一連の分析とフィードバックは数学や物理学に裏付けられたもので極めて再現性が高いために定量化と呼ばれていた。
レースの世界ではクルマに早く浸透し、バイクは少し遅れた。
それは、パーツとしてのライダーの存在が動きが自由過ぎで車体重量に対しての体重の割合が大きいので分析して定量化するにはデータのバラつきが大き過ぎたからだ。
レースの世界に定量化が定着すると、レーサーは自分の好きなように走ることなど許されず、デジタルと無線の発達でリアルタイムで走行状況はデータ化され、無線でレーサーとピットが繋がるようになると、常に指示に従いながらの走行になる。
定量化が進むと、プレイヤーに要求される資質は、指示に忠実に高度なレベルで反応出来ることだけになる。
つまり、余計なことは考えるな、となる。
バイクレースに定量化が馴染むようになると、他のスポーツへの応用も可能になったはず。
分析や定量化が高度になればなるほど、現場のプレーが高度になればなるほど、現場のプレイヤーが頭を使わなくなるのは必然だろう。
イチローの言葉に戻ると、メジャーリーガーのようにマイペースでわがまま放題に見える世界でも高度な分析と定量化で現場が動いているのだと分かる。
しかし、イチローはどうやらこういう流れはあまり歓迎してなさそうだ。
おそらくイチローという存在は、圧倒的な結果を残しはしたが、それは分析や定量化の賜物ではないという自負があるのだ。
この分析と定量化の一体化は、一般のビジネスを始めたとした多様な分野に拡大してるだろうし、その分析の役割を果たしているのがコンサルだとすると、コンサルがもてはやされる理由が少しは分かる。
さて、二刀流で有名な大谷翔平という存在は、分析と定量化の結果生まれた存在なのか、それともそんなものを超えたあるいは全く異質な存在なのだろうか。
指示を待つ人のこと日本では軽蔑するが、この場合本来軽蔑されるべきは的確な指示を出せない指導者や上司や経営陣と捉えることが本来なのかもしれない。
チームプレーや集団行動に関する指示のあり方は、底なし沼のような深さがありそうだ。