自意識過剰な人に対して『誰もあなたのことなんか気にしてないから全く見られてない、だから気にして神経すり減らすのは無駄だ』というアドバイスがある。
わたしの経験上これは嘘だ。
嘘だが、アドバイスとしては間違ってない。
自分が他人からどういう風に見られてるかが気になってる人は、自分が思ってる以上に周りの人から見られている、そしてその上で気づかないふりをされてることが多い。
なぜかというと、行動や仕草や発言が不自然でおかしいからだ。
本人がいないところでは、些細な仕草や言動が話のネタや酒の肴にされてる可能性が大。
自意識というアンテナは、そんな空気を敏感に感じ取るのだ。
これを改めたければ他人の目を意識し過ぎないことは有効だから、『他人は誰も自分を見てない』と思うことは有効だが、この意識が高じると別の不自然さが問題になり、不快な自己顕示欲の高さと大差ない印象を振り撒くようになるかもしれない。
することがない時や時間を持て余してる時にするものの定番が、人間観察や人間ウオッチング。
周りに人が少なければ、たまたまそこにいる人の細かいところまで見ていることもある。
細かいところまで見てると、気づくことはいろいろある。
推理小説などの述懐シーンには欠かせない。
周りに人が多ければ、無意識に見る対象を選別する。
かっこいい同性や魅力的な異性にも目は行くが、そればかりではない。
むしろ、具体的には書くと問題がありそうなネガティブな特徴を持つ人に目が釘付けになることの方が多い。
露骨に見てるのが分かるとどんなトラブルに発展するか分からないので気付かれないように見たり、目は向けないで他の感覚の全てを動員して感じようとすることはわたしだけの感覚ではないだろう。
ただ、その対象になる人物が明らかな弱者の場合は、そういう目で見ようとしてる自分自身に自己嫌悪や反省を感じることはあるが。
たまたま同じ乗り物に乗っていた、たまたま同じ場所にいたというだけの赤の他人に対しても感じるくらいだから、教室や職場など共有する時間や空間が多い関係だともっとだろう。
この感覚がいじめや差別に結びつくことは十分あり得る上で、人間はそういう生き物だと知っておくことは重要だ。
人間同士の結びつきは、好きの一致よりも、嫌いの一致の方が長続きする。
嫌いにはネガティブなものも含まれるので、理由なんてどうでもいい。
好きはすぐにもっともっととなり、共有意識はすれ違いやすくなるが、嫌いは一定水準をキープする場合が多い。
好きから始まる関係性は長続きしないが、嫌いの共有から始まる関係性は長続きしやすい。
好きと嫌いが明確に分別できるならこの世の悩みは半減するだろうが、好きと嫌いは背中合わせであることも少なくない。
好きや嫌いの混在に起因した悩みは、『木を見て森を見ず』や『森は見てるが木が見えず』というパラドックスな泥沼になることが多い。