「分からないところがあったら質問して」と先生に言われても、どこが分からないかが分からない、子供時代や学生時代によくある話だ。
こんな時に、マンツーマンで優しく教えてくれる人が、それがどういう種類の人であっても構わないが、いてくれるかいないかで、分からないが解消するかしないかが決まる。
分からないことを、どういう経緯でも構わないが、解決できるかできないかの積み重ねを繰り返すことの差はとてつもなく大きな差になる。
単なる勉強ではなく、特に技術は盗めと言われるような分野ほど。
そして、このことは大人になるともっと大きな差を生む。
最近30年で起きたアナログからデジタルへの変化では、それがビジネスに関する事だろうと、趣味や遊びであろうとも、無数の分からないが世間には存在したはず。
そして多くは何となく解消しているはずだ。
何となくとは、筋道立てて理論を理解してということではないという意味で、結果的に結果オーライなだけという場合も少なくないはず。
デジタルの分野で起きる不都合の99%は、筋道を設定し理論立てて組まれているプログラムに反することをしようとするからで、そんな状況に陥ると「こんなこともできないのか」と、自分以外に不満の原因を求めたくなることがある。
もちろん私のことだ。
無駄のような人生でも時間を積み重ねると、「こういう場合は自分が間違ってるな、それも基礎的なところで」と理解できるようになる。
厄介なのは、どこまで遡った段階の基礎なのかだ。
一から基礎をやり直すなんてそれこそ無駄に思えるし、モチベーションも上がるわけないし。
これまた経験上だが、そういう場合には基礎的なある領域がすっぽりと抜け落ちてることが多い。
きちんと理解してないのに、これまでなんらの不都合が生じなかったか、ちょっとジタバタしたら何かの拍子にうまくいったような場合か、諦めて別の解決法で妥協したりで、真の解決をスルーして来た事によってだ。
こういう時に、抜け落ちていた基礎的なことに気付くととてもホッとして、世界が薔薇色に見える事がある。
難問にチャレンジしてると思ってる時ほど、基礎をおろそかにしてはいけない、これまで上手く行ってたことの方が間違いだったということは人生には少なくないのだ。