今生きてる大人にとっては、この大人には社会の動きに興味を持ってる子供も含めて構わないが、リアルタイムで経験したはずのコロナ禍ですら真相はよく分からない。
ワクチンの効果ですら賛否がピンからキリまでだ。
ただ確実に社会には負のダメージを大きく残している。
個人的には、コロナの恐怖が具体的に迫っているのを感じたのは志村けんさんが亡くなられ、その直後に岡江久美子さんが亡くなられた頃だけだったような気がする。
今でもさまざまな意見があるが、今となってはコロナを恐れるというよりも、恐れるべきはコロナに振り回されることになっている。
ロシアがウクライナに攻め込んだのも今年で、攻めるロシアに対して守りのウクライナという図式であることだけは誰の目にも明らかだが、それ以外に関しては真相はよく分からないという展開が続いている。
この戦争をめぐる報道にもフェイクを駆使した情報戦が展開されてるので、個々のフェイクの存在は感じられるが、トータルではどうなっているのかがよく分からなくなる。
当初は加害者と被害者という目で見ていたが、さまざまな情報が出て長引くとやがて喧嘩両成敗的な気持ちすら生じるようになる。
自分の身に事が及ぶとあまりにも理不尽だと感じるであろうことが、見知らぬ誰かの身には常に起きている。
いつか自分の身にも及ぶのかもしれないし、すでに及んだ事があるがもう記憶が風化してるだけかもしれない。
テレビで未解決事件を扱っているのを見るたびに、事件が起きたという事実は明らかなのだが、真相は藪の中だなと感じる。
現代の先進国で生きてる人にとっての真相とは、エビデンスや証拠がどのくらい揃えられてるかで判断されるという意味では、実は真相ではない事が多い。
絶対的なものと言うよりも、権力が落とし所として無難な体裁が整うものを真相として採用するか、多数決に委ねるようなものの域を出る事ができない。
人間社会では真相は絶対的なものではなく、安定するものであればなんでも構わないのだ。
安定は、法律が裏付ける安定であり、多数が支持するもの、中には多数が黙り込むことで維持される。
絶対的な真相は藪の中だとするならば、賢く振る舞うということが重要になる。
賢いとは何かは一人一人が考えるしかない。
このように考えると、賢いってあまりかっこ良いものではないが、処世術としては侮れないことが分かる。
ストレスは永遠に続きそうだ。