自然の反対語は何か?
自然をどのように解釈するかで答えは変わる。
何も考えない人ならば不自然と即答するだろう。
不自然とは、辞書的には「わざとらしい」となる。
わざとらしいとは、人間がするあまりレベルが高くない行動や振る舞いに対する形容だ。
つまり、自然の反対語を不自然という場合は、反対に位置するのはレベルの低い人間の行動や振る舞いだ。
自然を、いわゆる花鳥風月と解釈すると反対語は人工的、人為的なものを連想したくなり、その場合はそのレベルはあまり関係ないように感じる。
しかし、人工的人為的であっても全てが手作業のみで行われた場合、あるいは道具も手作りの場合は道具を使っても、作り上げられたものには自然という表現は馴染みが良い。
そのような場合は、人間自体が自然の一部だと実感できる。
人間の悩みは、自身の健康に関してと人間関係に集約されると言われる。
この場合は、お金の問題はほぼ人間関係に含まれると解釈される。
お金の問題とは、取り立てる人間、支払わなければいけない相手との人間関係の問題だからだ。
その人間関係に法律が割って入るからややこしくなるのは、法律というのが不自然な存在だからだろう。
今書いてる流れからすると法律は低レベルな存在となるが、人間社会では法律に関わる人、代表格は裁判官、検察官、弁護士となるが、これらは人間社会では上位に位置してるということは、自然の一部であるはずの人間が自然と対立する矛盾の大元のようにも感じられる。
自然の反対語らしきものには超然というものもある。
超然は政治的な使われ方をするが、この場合の超然は平然とほど同義で使われている。
何があっても影響を受けないことが平然で、これが自然の反対語になるということは、自然とは絶えず影響を与える存在であり同時に受ける存在でもあるというようにも解釈できる。
日常会話で自然と用いる場合には、無理がない状態を意味することが多い。
目的や意図があっての人為的な作業の多くは、当事者の取り組む気持ちは自然なものに近いだろう。
もし、自分がやってる作業を自然なことだと思えなければ罪悪感や良心の呵責が生まれるかもしれないが、そういうことがあればそれは人間関係に繋がりやすい、あるいは矛先が自分自身に向かえば心を病むだろう。
簡単に見えることほど奥が深く、問題を困難にする背景には簡単なはずのことがきちんと処理されてないからということがありそうだ。
自分を偽ることが簡単にできるという人間が持つ悪徳が、人が自然な存在であることを脅かしてるようだ。