本音と建前、と対立的に使う場合の本音とは言いたくても言えないことで、建前とは無難な落とし所を意味することが多い。
しかし、世の中に本音ばかりが溢れかえると、本音と建前が立場を入れ替えるのかもしれない、と思いたくなる。
私もそう思います。「良識的な正論」よりも「反良識的で痛快な暴論」の方が、目先の視聴率やPVの尺度では「商品価値がある」。だから目先の尺度で評価されるメディア業界の中で、それが「人の道に外れた暴論」だと気づけず、疑問なしに後者を持て囃す人が増えている様子です。https://t.co/vDj7sfXVSh
— 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) 2023年1月11日
ここで書かれてる暴論とは次のようなもので、言ってる本人にとってはど真ん中のストライクなのだろう。
アベマPrime「令和の日本改造論、求められる街作りは?」
— 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) 2023年1月11日
成田悠輔イエール大学助教授「僕はもう、唯一の解決策ははっきりしてると思っていて、結局、高齢者の集団自決、集団切腹みたいなことしかない。結構大真面目ですよ、人間って引き際が重要」
ひろゆき氏ら出演者爆笑。https://t.co/3FhY1IaLNo pic.twitter.com/LHfL5hYfzW
ネットなどない頃から週刊誌はウソをつくと言われていたし、そのウソもおもしろおかしく演出され、ゲスの勘繰り心を煽っていた。
そんな週刊誌の中には新聞社の系列もあり、新聞だと書けないことを週刊誌で書いていると言われ、本音と建前の補完関係が見えていた。
それが最近は、『それは個人的な見解です』や『それってあなたの感想ですよね』と扱うことで、声の大きい者の個人的な感想が罷り通ることが増えた。
また、個人的な感想のような暴論を発する者が教育機関の関係者だったりするのは、教育業界も本音と建前の矛盾を抱えていることを教えてくれている。
清濁併せ呑むのが当然と思われる政治の世界では、暴論に対しては天誅が下ったのが昨年だった。
本音にしても建前にしても、どちらかに振り子が振れ過ぎると反対側のベクトルに移っていくが、本音と建前が個人の感想で薄められると振り子の機能は果たせずに、代わりに流れの中に大きな淀みができ、淀みにハマってしまうと抜け出ることができなくなるかもしれない。
身近に「個人的な感想」が合わな過ぎる人が何人もいるならば、その環境に留まってはいけない。
その環境は大きな淀みのようなもので、抜け出すのは容易ではない。