結果がすべて!
自分事として頭ごなしに突きつけられると、きっと気分が悪い。
しかし、目的や目標があればこその結果だと、冷静に落ち着いて考えると当たり前のこと。
究極的には今の自分があるのは、結果を出したからと思える人と、結果を出せなかったからと思える人に分かれるはず。
昭和の頃のサラリーマンは、飲み屋で上司や会社や取引先に対する不満や愚痴を訴えると言うのは定番のように思われていたが、自分が結果を出せているかといえば、その結果は愚痴や不満とは必ずしも一致してなかったはず。
こんな昭和のノリはコロナ前までは続いていたように感じるが、コロナ禍以降は、ありそうでなさそうなのが愚痴や不満の吐き出し先かもしれない。
匿名でのつぶやきができるとはいえ、直接の対面で気兼ねなく吐き出せる言葉とそうではない言葉は質的に全く違うはず。
結果を求められると言うのは人間特有なのだろうか?
ペットの動物を見てると可愛さが求められてることは分かるが、それ以外に、犬であれば忠実さ、猫であれば自由気ままさ、鸚鵡やインコであれば言葉をしゃべることだったり、やっぱり何かしらの結果を求められてるように感じる。
しかし、これはあくまでも対人間とのコミュニケーションの中であって、動物同士ならば結果を求めるなんてないようにも感じる。
群れで行動する動物の場合、結果を求められると言う関係性ではなく、あるのは役割分担や地位の違いのような気もする。
動物に当てはまる関係性は一部の昆虫などでも見られる。
これは、その動物や昆虫などに社会性があるかどうかが影響してるのだろうか。
弱肉強食の世界では生死は結果が全てではあるが、「結果がすべて」と価値観を押し付けてくるのは人間だけのように感じられる。
人間社会では結果と対の関係にあるとされるのがプロセス。
GoogleTrendsで「結果」「プロセス」の比較をすると、
データの取得が始まった2004年の両者はほぼ同じだがそれ以降プロセスは上がっていない。
意味のある比較ではないと承知の上で、現代社会が結果がすべてに向かったことを示してるように思えてしょうがない。