テレビのバラエティ番組で、司会者やレギュラー出演者以外のゲスト出演者の中でもキャラクターが芸人寄りの人はひな壇芸人と呼ばれたり、自由に発言する様からガヤと呼ばれたりする。
テレビを見てると気付きにくいが、画面の中のひな壇のガヤ芸人を取り巻くように自分を含めた視聴者という大規模なガヤが存在している。
ガヤ芸人の発言は、まるでテレビを見てる視聴者の反応のようでもあるし、視聴者を巧みに誘導してるとも言える。
意図してそうなってるのか、あるいは結果としてそうなっただけかはともかく、人は流れやすい方向に流れる。
テレビの視聴者が減少したり視聴率の低下はあっても、ガヤという市場はメディアをサーフィンしてるだけで相変わらず大きいと感じる。
同じようなことが広い意味での情報の流通にも起きているように感じられる。
真実や核心に関係する情報を知りたいと思い求めてるようでも、入手したり接することができる情報の多くが実はガヤばかりということが大半なのかもしれない。
昭和の頃だったら、新聞やテレビというマスコミ序列の上位から発される情報はガヤではなかったような気がする。
別の言い方をすると、ガヤは扱わないという気概というか尊大なプライドが良くも悪くもあったように感じるが、今や日本に関しては立場を問わずに一億総ガヤになってるように感じられるとともに、ガヤを扱っていながらも意識だけは高く自分はガヤではないと思い込んでるだけのようにも感じられる。
ガヤかそうじゃないかの判断基準も情緒的で、フォロワーやいいねが多い方が上位だと位置づける方が分かりやすいというだけなのかもしれない。
ひな壇芸人をガヤと呼ぶことが新語流行語の大賞にノミネートされたのが2009年。
スマホやSNSのせいで広まったと思われてる現象の中には、ガヤの広まりによって起きていたことの方が日本では多いのかもしれない。
日本では、知識はあるのに考えない人がとても増えたように感じる。
同調圧力は嫌だと言いながらも、空気を読もうと一生懸命なのが日本人。
だからだろうか、リアクション(考え方や反応としての)が似てる人が多い。
日本人は一億総ガヤ化している。
しかも、このガヤは空気を読みたがる。