違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

リセット症候群≒緊急避難

なんともそそられるタイトルの記事があった。

 

ある日突然、SNSから"消えて"音信不通に…「人間関係リセット症候群」を患う若者がジワジワと増えるワケ

 

記事は昨日のものだが、Twitterで「リセット症候群」と検索すると、「そして僕は途方に暮れる」という公開されて間もない映画のプロモーションとリンクしてそうな気配が漂うことに気付くが、それをさて置いてもリセットしたいという願望には共感を感じる。

 

私が感じるリセットは断捨離とも通じるところがあり、全部捨てるというよりも、本当に必要なものだけを残すというもので、吟味の結果全てが帯に短し襷に長しであればオールリセットも選択肢に入るというもの。

 

この感覚は、新しいPCやスマホを購入した場合設定やアプリを前の機種から移すか移さないかの判断とも通じるだろう。

 

「リセットしたい」と思う時の対象は何か?

 

それは一言で言うと「環境」だ。

 

では、環境とは何かというと、人間関係や人間関係が生じる場であり、生活の場であり行動半径から生まれるものとなるだろう。

 

場には、現実の場と仮想の場が混在するのが現代。

 

これ以上の環境も定義は可能だろうが、それは受け容れる以外の選択肢がないことになるので考えてもしょうがない。

 

リセットしたいという気持ちは満足や充実から生まれるというよりも不満や不足が引き金になって生まれるケースが多いはず。

 

リセットできる環境として現実味が高いのは人間関係や引越しになる、現実の場であろうと仮想の場であろうと。

 

 

一方で、人間関係や経歴や履歴や持ってるアカウントを財産や資産だと思ったり、あるいは積み重ねた実績だと思う人はリセットはしたくてもできないのは、リセットすると自分がゼロになると思い込んでるから。

 

このような人が気付いてないのは、リセットしなくても所詮中身はゼロに等しいということも少なくない、という現実なのは皮肉だ。

 

 

振り返ると、20世紀の頃は進学や就職は大きなリセットの場として機能し、過去を断ち切ることができていたが、現代ではそれは簡単なことではないかもしれない。

 

この思いは若い人ほど強いとすれば、冒頭の記事に対する印象が少し変わり、リセットと表現されてるがそれよりも緊急避難に近いようにも感じる。