プロ野球やWBC侍ジャパンのキャンプで盛り上がる宮崎の様子を報道してるのを見てると、地元の方にとっての非日常が感じられた。
押し寄せる車のために敷地が広い個人やお店が本業そっちのけで臨時駐車場をやっていて1台1日2000円〜3000円という設定でやっていたが期間限定の特需だろうなと感じた。
球場の近隣の駅は無人駅で列車は1両編成で現金しか使えないのが通常だが、この時期だけは2両編成になり応援の駅員が配置され、乗車駅に交通系カードで入場した方も現地では現金での支払いを余儀なくされると共にカードに記録されてる入場情報の消去も行う必要があると伝えていた。
やっぱり野球人気はすごいなと思いながらも、その野球人気は10年以上前から衰退の一途を辿っていると言われてることも思い出していた。
サッカー人気の台頭以来、野球をする子供が減っているという話はよく聞いた。
親が野球が好きでも子供が野球を好きでなければ、子供は野球はしないはず。
子供が野球が好きでも親が野球を好きでなければ、子供の野球に対する熱は持続しないかもしれない、特に道具の購入やその他何かと経費が掛かるだろうが、その支出に対する理解が薄いだろうから。
一方で、親も子供も野球が好きな場合は、野球に関連する支出は投資的であり英才教育的になり、甲子園予備校、プロ野球予備校的に野球が位置付けられるだろう。
最近は日本でも物価の上昇が見られるが、それは価値が評価されて上がっているのではなく、世界情勢の負のダメージに過ぎない。
長らくデフレが続いた日本だが、親の子に対する教育関連支出にデフレが及んだという話はあまり聞かないし、むしろ教育費は子に対する投資であり、それは子供のためであるとともに将来のリターンを期待するような思いも秘められている、はず。
同じことが国が掛ける教育関連(研究含む)の予算(=投資)にも当てはまりそう。
予算の多い少ないよりも、どこにどのように配分するかの問題に収束するのだろう。
どこにどのように配分するかが問われるのお金だけではなく、情熱やエネルギーなど人によって価値や評価が異なるもの全てだ。
一見筋違いな話にも感じるが、以下も同じことかも。
ラジオでゲッターズ飯田さんが「最近、『彼氏の生年月日を知りません、彼氏の名前を知りません、別れた方が良いのでしょうか?』というような相談が増えている」、と言っていた。
名前も知らない相手と同棲してるというケースも少なくないらしい。
新手の詐欺ということではなくだ。
なんとなく私が思ったのは、一人きりの状態から抜け出せるなら相手は誰でも良いと思う人が少なくないのかも、ということだった。
孤独や孤立と呼ぶと、一人(独り)でいることは寂しくて辛くて悲しいことだと思ってしまうのは、人間は社会的な生き物だとする前提の影響も大きいだろう。
つまり、一人(独り)でいることは変で悪だという前提になるのだ。
ドラマや小説では一人でいることを楽しくて幸せだとは描かない。
これはこれで、どこにどのように価値観を配分するかの問題だと思えてくる。
価値観が多様化するとはこういうことなのだろう。