世間では次から次に新しいタイプの愉快犯や迷惑系と呼ばれるキャラクターが登場する。
一連の強盗殺人事件の指示役ルフィはまだ正確な特定がされてないが、凶悪な事件ではあるのにルフィと名乗ったりする様子からは愉快犯や迷惑系とノリが共通してるように感じられる。
匿名性が通用してる間に使っていたキャラと、すべてが特定された後に余儀なくされるキャラはきっと同じというわけには行かなくなるだろう。
人生は演技である、あるいは人生は演劇であるといわれる。
そんなつもりがあろうがなかろうが、皆自分というキャラクターを演じているのだ。
自分というキャラクターは演じてるものではなく、備わったものだという考えを持つ人も多いかもしれない。
誰だって一度や二度は理想とするキャラや目標とするキャラを設定し演じてみようと思ったことがあるだろう。
モテる人はどのように振る舞うか、そういうことを意識したことは誰だってあるだろうし,有能なビジネスパーソンはこんな時どのように振る舞うだろうかと考えたこともあるだろう。
そういう良い意味で設定したキャラに自分を寄せて行けた人は、おそらく目標達成に近付きやすくなるはずだ。
一方で、わたしを含めた多くの人は、元々のキャラと合わない人物を演じようとしても無理があると、早々に自分が自覚してる自分のキャラに戻って行くことの方が多いはず。
他にも、親や友人知人や教師や上司などその時々で気に入られたい人の関心を惹こう過度に思い込むと自分の本心ではないことに意識が集中するので目標に向かうような演技にならない。
言いたいことが言える、思った通りに行動する、こういうことですらできる人とできない人に分かれる、これは簡単なキャラクターに対する設定を変えればできることなのだが。
キャラを変えようと真剣に望むならば、新しいキャラを受け容れてくれる環境や新しいキャラに相応しい環境も必要になる。
そういう環境へのアプローチが困難な場合は、強い心や鋼のメンタルが必要になる。
『お前はそういうキャラじゃないだろう』と従来のキャラに押し戻そうと従来の環境(≒人間関係)が抵抗してくるので、それに抗えるだけのメンタルが必要になる。
メンタルを挫けさせるのは、従来の環境や人間関係にしがみ付く思いが強いからであり、それは限りなく依存に近いのだ。
不思議なことに、依存関係は決して居心地が良いわけではなくても醸成されるのだ。
人生は演技だ、そう思えたら、元気があればなんでも出来る!
そういう観点で、映画やドラマを見ると参考になることが得られるかもしれない。