使わない能力は衰える。
誰もが信じてるし、実際にその通りだという体験を覚えてる人も多いはず。
だからリスキリングという発想が生まれることは不思議ではない。
しかし、このことを禅問答的に捉えると、使わない能力は必要とされない能力だと位置付けられる。
この必要という部分は極めて個人的な属性なので、社会に必要とされないということを意味するわけではない。
つまり、必要とされないとは、興味や関心がないと置き換えることもできる。
これと少し違うパターンで、スポーツや楽器のレッスンでは一日練習をサボると取り戻すのに三日かかるなどという定説がある。
では、サボるわけではなく、長期に渡って練習ができないという環境を余儀なくされた場合はどうなるか?
例えば病気や怪我などで。
このような環境(一般的には逆境と呼ばれる)から復活を遂げたという話は実は少なくないが、多くは例外的な美談とされる。
最近のスポーツ界だと池江璃花子さんだ。
白血病で長期離脱を余儀なくされた逆境から見事に蘇った。
このことで一部の人たちが一層確信を持った話がある。
それはマッスルメモリーの存在だ。
筋肉や身体は全盛期の状態を記憶していて、ブランクがあっても適切なプロセスを経るとその全盛期に近いレベルまでは戻ることができる、という考え方。
マッスルメモリーを発動するために必要なのは諦めないということで、その姿は無責任な外野からは未練がましいとしか言われない。
個人的な体験としてそれに似たこととして思い出すのが自転車に乗るということ。
子供の頃に自転車に乗り出した人の多くは高校生くらいまでは自転車はすごく身近な存在になるが、それ以降の人生では遠ざかることは少なくない。
大学生になってオートバイや車が趣味になった私にとって再度自転車が身近になったのはその20年後。
久しぶりに乗る時には密かな恐怖があった。
ちゃんと乗れるだろうかと。
乗るだけだったらあっさり乗れた。
身体が覚えてるもんだなと感心したことを思い出す。
しかし印象はまるで違った。
車やバイクのイメージからすると当たり前だが、なんて遅くてキツイんだと。
一方で、バイクや車との比較で驚いたのがハンドリングの軽快さだった。
バイクや車でハンドリングの鋭さを形容する際の最上級の表現にカミソリのようなというものがあるが、久しぶりの自転車のハンドリングはまさにカミソリそのものだった。
このギャップから始まった第二の自転車ライフだが、自転車に乗ることで鍛えられる要素はリスキリングなのだろうかあるいはマッスルメモリーだろうかと考えると、どちらも当てはるようでもあるが違うような気もする。
私の場合自転車に関してはリスキリングやマッスルメモリーという観点よりも重要だったのは、20年ぶりに自転車に乗ってみようと思ったことだ。
理由はともかく確かにモチベーションがあったのだ。
モチベーションが重要なのだ、たとえ錯覚の上に成り立っていても構わない。
ただ、モチベーションは不安定なので、些細なことで簡単に上がったり落ちたりする。
リスキリングを意識するならばリモチベーションが最も大事になるはず。
かなり運の要素もありそうだ。