SNSやネット上でのコミュニケーションとリアルなコミュニケーションの間には壁や溝があると言われる。
その壁や溝の原因となる対比構造としてよく挙げられるのが下記のようなもの。
- 不特定多数と特定少数
- 匿名と実名
- 承認と不承認
壁や溝は、コミュニケーションの中身が真実なのか嘘なのかによっても生まれるし、真実と嘘の間には無限のグラデーションが生じうるので、真実と嘘の境目すら分かりづらくなる。
匿名で不特定多数に向けて勝手に発信できるから本音も嘘も毒も誰にも遠慮することなく吐けるという声も大きいが、よく知らない価値観も異なるどこかの誰かの本音や嘘や毒に触れると心がどんよりするという声もまた多い。
匿名にも二種類あり、リアルな知り合いの誰にも伝えてない完全匿名の場合と、リアルな知り合いは知ってるペンネームやニックネームという場合もある。
一方で、実名での特定少数とのコミュニケーションであっても同じことは当てはまると言われる。
実際に知ってる相手だからこその関係性を引きずるという意味では、ネガティブに作用すると匿名の比ではない。
これらのことは、どちらが良いとか悪いとかと言われながら流行り廃りを一定周期で繰り返す、一定周期は不特定周期でもあるが。
この繰り返しのプロセスの中の廃りの始まりがオワコンと呼ばれる現象。
しかし、流行り廃りを繰り返しながらも、コミュニケーションは情報やその解釈を巡っての遣り取りで成り立っている。
情報は興味や関心でジャンルが分類され、それぞれのジャンルで新しい情報が求められ、その動きが新しいジャンルを生み出すということを繰り返す。
新しい何かが生まれるたびに、その理解や解釈は初心者レベルから始まる。
そう考えると、歴史が繰り返すのも当然だ。
束縛を感じると自由を求めるが、過度な自由が野放しだと感じるようになると枠を設けたくなる、枠がきっちりし過ぎると束縛だと感じるようになる、こういうループも繰り返される。
こうして歴史が繰り返すことで、人は禅問答という暇つぶしに余念がなくなる。
『なんでだろう?』
『どうしてだろう?』
これらは悩みのようだが楽しみでもあるのだ。