ChatGPTの話題につられて再びAIが脚光を浴びてるように感じられる。
この話題の中心テーマは、いよいよAIが人間の領域を侵食し始めたというもののように感じられる。
そこで思った話。
現代に生きる者にとってはあまりにも当たり前過ぎるので逆に見えなくなってることがある。
現代でも、18世紀に始まったとされる産業革命の流れの真っ只中にいまだにいるのだ。
産業革命とはエネルギー革命で、始まりは蒸気機関。
蒸気機関は石炭をエネルギーとして、それで動力を生み出し船や機関車や工場で活躍した。
忘れてはいけないのは動力を使うことで豊富で安定した発電が可能になったこと。
その後、石油が主役になると飛行機や自動車の普及が促進され、生活に関する便利もどんどん進んでいった。
ここで忘れてはいけないのは、何か新しい便利が世に出るたびに、人がそれまで活躍していた場がひっそりと消えていたことだ。
そんなことわざわざ人がやる必要はない、人がやるよりはるかに速くミスもしないし、疲れることもないし、不平不満も言わない、そういうことがどんどん拡大したのだ。
エネルギーを巡ってはその後原子力の時代に移ったかに見えたがさまざまな課題に直面してるし、次世代の本命であるはずの自然エネルギーも利権を巡る話に翻弄されている。
新しい何かの登場が人間の領域を侵食するという現象は、その時を過ごしている人たちにも見えるようで見えにくい。
このようなことを考えていて思い出した話がある。
1970年の石原裕次郎主演の富士山の山頂に測候所を建設する実話の映画。
わたしはこの映画を21世紀のどこかで見たのだ、ネットだったかテレビだったかは覚えてない、ただすごく印象的なシーンがあるのだ、この映画のメインテーマではないシーン。
当時富士山山頂に測候所を建設しようとする場合、道もないので、すべては人力に頼るしかなかったので、強力(ごうりき)と呼ばれる荷物運び専門の地元の人に物資を担いで運んでもらうしかなかったのだが、荒くれ男の強力たちは指示をされるのが嫌いなので作業が遅れ気味だった。
そこでブルドーザーを使って運べないかという案が出てその実験をすることになった。
ブルドーザーのシャベル部分に乗せられるだけの部材を載せて、さらに周りの空いてるスペースに乗れるだけの技術員を乗せて、どこまで登れるかを試した。
強力達は『富士山舐めるなよ』と嘲っていたが、その強力を横目に人も荷物も満載したブルドーザーがグングン強力達を追い抜いて山頂まであっさり到達。
それを見た強力の親分(勝新太郎)が、『俺たちの仕事は無くなる』と言ったシーンが忘れられない。
落ち込む強力衆に親分は『オレもあれ(ブルドーザー)を買う、仕事はオレが取ってくる、オレが信じられる奴はオレについて来い』と付け加えていた。
さて、この話をChatGPTやAIに例えるとどうなるのだろうか?
人の数だけ意見や考えはあるかもしれないが、『オレについて来い』と言える人はどれだけいるだろうか。
現代は、『オレについて来い』という経営者は減る一方なのに対し、経営者は『ついて行きたい』と思ってる人たちの首を切ることにむしろ夢中になっているようにすら見える。
多分、時代は、オレについて来いという人も、ついて行きたいと思う人もお呼びではないのかもしれない。
自分は自分の道を行く、そんな意気込みしか生き残れないのかもしれない。