『俯瞰で見る』ということを想像する場合、誰しも鳥の目や神様の目のように高みから見るということを意識するだろう。
その前提としては、俯瞰を意識しない場合の自分は地上にいて地上目線だということもあるだろう。
俯瞰という概念は、地上と地上より高い位置の間で成立するものというのが暗黙の了解だが、俯瞰の位置もさることながら、地上だと思い込んでる位置は本当に地上なのかを疑った方が良いかもしれないという話。
具体的に何が見えるかという話をする場合はこのことに何の不都合もないが、抽象的にテーマを決めて議論するような場合、俯瞰という視点は実にバラバラになる。
知識や経験、持ってる価値観や想像力がまるで違うと、地上にみんないるはずという前提がまるで崩れるからだ。
深さ100mの穴の中にいる人が、深さ50mの位置から見る景色は、形式上は俯瞰だが、誰もがイメージする俯瞰とはまるで違う。
俯瞰という概念は、今現在どこに位置して何が見えてるかでまるで違ったものになるのだ。
つまり、未来を語ろうとするような場合、俯瞰で見るということは言語明瞭意味不明なすれ違いを生んでるはず。
古来人類にとっては生きることは過酷で最大の敵は飢えと寒さだと言われ、そのための対策がDNAのレベルには受け継がれていると言われるが、最近の人類にとっての最大の敵は生活が楽になったことで起きる運動不足と食べ過ぎだなんて言われるようになっているが、DNAのレベルでは食べ過ぎや運動不足は想定外なのだ、もっともこれは先進国と呼ばれる国に限った話だが。
地球レベルで俯瞰で見ると言っても統一された視点なんてあり得そうにない。
もし宇宙レベルなんてなろうものなら、人類の大多数は地上にいるというよりも地底にいるようなものだろう。
ところで俯瞰で見るという行為は、すでに出ている結果に目を向けることで、その結果に至ったプロセスには目を向けない。
俯瞰で見ることで未来に向けた新たなヒントを得ようとするような場合、そこで必要となる新たなプロセスをイメージできるかどうかは俯瞰が最も苦手としてることだ。
俯瞰で全体像の把握を上手にできる人が苦手なのが、全体像を支える細部の詰めだ。
結果的に細部は丸投げというケースが少なくない。
プレゼンだけが上手な人は派手に目立つが、俯瞰では把握できなことがすっぽり抜け落ちるので、周りの人が尻拭いに苦労する。
俯瞰という視点は単独では機能しない。