カメラが日常に溢れた現在となっては何を今さらと思うのが百聞は一見にしかずだ。
カメラが特別な存在だった頃には、ことばでの説明を補完するために絵や図が用いられ、情報の受け手は最大限に想像力を働かせてイメージを膨らませていた。
想像は妄想になることも少なくないが、だからこそ現地に行くことや現場で過ごすことには今以上に価値があった。
想像を上回ることもあれば想像を下回ることもあった、むしろ想像通りということの方が少なかったかもしれない。
そんな時代には映像はウソをつかないと信じられていた。
もちろん今となっては懐かしいネス湖のネッシーのような特撮もどきもあるにはあったが。
しかし現代のように映像の編集や加工が容易かつ高度なレベルになると、無条件に映像があるからという理由で信用するわけには行かなくなっている。
映像で何かを表現し伝えるという行為は、安易なこととすら思われるようになってしまった。
映像が信じるに足るのは撮影自体のハードルの高さに加え、映像の編集や加工はさらに大変だったという技術やコストの問題も大きかったことに加え、映像を見せるための場や機会を設けることも簡単ではなかったからだ。
しかし、今や一見は一聞と大して違わなくなってしまった。
一見には単純明快な分かりやすさはあるが、それゆえにきちんとした説明や解説がセットで必要になっている。
むしろ、きちんと聞かせることの方が遥かに希少な存在になったとも言える。
人は情報の80%を視覚から得ていると言われているが、テレビの普及が行き渡った頃から言われ始めたのが、視覚から得る情報の多くがどうでも良い情報だということだ。
その例としてニュースや報道番組でのキャスターやコメンテーターのファッションの変化が挙げられていた。
ニュースの内容や解説よりもキャスターのファッションや表情の方に注目するのだ
男性がおしゃれでダンディを強調する以外に顕著だったのが女性のミニスカート化。
私がこの話を聞いたのはバブル景気の頃。
今にして思うのは人間が加工したあるいは演出して作った視覚情報と、自然や日常の中で目が捉える視覚情報は根本的に違うものだったと、もっと早く気付くべきだった。
人間が目を向けるのは見るべきものではなく見たいもの。
運転中や授業や講義の最中に脇見やよそ見をするのはその表れだ。
入手する情報の80%が視覚からということは変わらないとしても、役に立つ有益な情報に限定するとちょっと違ってくるように感じる。
例えば能動的に学習してる場合、本を読んだり資料を見たりやはり視覚情報が中心になるが、その都度内容を咀嚼しながら考えるというプロセスが発生する。
このプロセスは目を瞑って行うことも多いはず、その場合は脳内のスクリーンが活用されるはず。
視覚情報の一種と言えそうだが、この場合は脇見やよそ見は起こりにくい。
見たいものと見るべきものが必ずしも一致しない多くの人にとっては、一見はどんどん軽い存在になっているだろう。
百聞は一見にしかずなんて思っているとどんどん取り残されるだろう。