人間は道具を使う生き物だと言われる。
人間が道具を使えるのは、二足歩行動物であり手を体を支えるという目的以外に自由に使えたからで、そのことが脳の発達も促したからと言われている。
今でこそ道具にはハードウェアとソフトウェアがあることは皆の知るところだが、時代を遡るとソフトウェアの役割は人間がするもので、手先の器用さやセンスの良し悪しとして現れていた。
現代では、道具の形を意味するのがハードウェアであり、そのハードウェアを制御コントロールするプログラム的な要素がソフトウェアと呼ばれている。
ハードウェア+ソフトウェアに命や指示を与えるのが人間の役割りだが、その人間の役割の中でもミスやトラブルの元になりそうな要素はソフトウェアが担うようにシフトしている。
少し余談。
日本の衰退という話をよく聞くが、社会システムの中でハードウェアとして道具化した人間のソフトウェアの更新が進まないことによって起きてる現象だと考えると分かりやすい気がする。
人間とは更新が得意ではないハードウェアとソフトウェアの一体型なのだ。
つまり、ハードウェアとしての人間ではなく、人間ではないソフトウェアに任せた方が良いことを人間が手放せない結果の衰退なのだ。
日本だけ見てても気付きにくく、世界と比べるから気付くことでもある。
ハードウェアとソフトウェアは両輪として機能するので、優れてることも大事だがそれ以上にバランスが取れてることの方が大事なはず。
余談はここまで。
また、これ以外に地球環境の持続性ということも課題になっているので、ハードウェア+ソフトウェアにもサスティナブルやエコロジーという観点が不可欠になっている。
いろいろなことが日々変化するが、その変化を道具の変化だと捉えると、必ずしも人間の座が脅かされてるわけではない。
道具が変わることで、少しばかり社会が変化するならば、それに抵抗するのが得なのか、あるいは適応した方が得なのか?
積み重ねたキャリアや経験ガー、なんてついつい思うと適応する方を敬遠するかもしれないが、時間差で適応を余儀なくされた場合はただの遅れた人に過ぎない。
世の中の変化を、単なる道具の変化と捉えると、少しは見え方が変わるかもしれない。
結局、その道具を使って何をしたいかなのだ。