違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

エゴサーチという煩悩

エゴサーチなんて昔は簡単にはできなかったはず。

 

うわさ話を聞きつけて『おまえオレの悪口言ってるらしいな』とケンカが始まるようなストーリーは定番だったが、エゴサーチが可能になると物語の展開も変わるよななんて思い始めて、なんとなくエゴサーチを探ってみた。

 

 

Wikipediaによると『現代用語の基礎知識』にエゴサーチが載るようになったのが2006年とある。

 

つまり、自分で自分を検索するということはそれなりの歴史があることが分かる。

 

 

 

テストの点数や偏差値を含めて自分の評価がどのようなものなのかは誰でも関心があって当然で、適切に評価されてるのかや、自分が思ってる自己評価と教師や上司を含めての世間の評価とどのくらい一致してるのか、はたまた離れているのかは知るのが怖いが知らないのも怖いと思うようになる。

 

 

自尊心と劣等感が激しく渦巻くのが人間の本心であり本音だが、日常生活ではそれらは適度にオブラートに包むことが賢い処世術と多くの人が学んでいる、特に日本では。

 

 

エゴサーチが自尊心に基いていようが劣等感に基いていようが、どちらにしても煩悩と言えるだろう。

 

古来日本では煩悩は108あるとされる。

 

今さらながらこの108が意味するものとは何だろうかと思い検索し、一番しっくりきたのが次の話。

 

 

仏教では、人は「眼(げん)、耳(に)、鼻(び)、舌(ぜつ)、身(しん)」、そして第六感がはたらく「意(い)」…すなわち心の感覚を持っていると考えられています。これが6つの感覚。

その感覚には受け取られ方があり、「好(良)、悪、平」3つ。さらには「浄(きれい)、染(きたない)」2つに分類されます。

これをかけて、6×3×2=36個

加えてこの営みが、「前世・今世・来世」…過去、現在、未来の3つの時間軸に分けられるということで、「36×3=108」

すなわち、108の煩悩ということになるそうです。

https://news.1242.com/article/164680

 

 

 

 

 

上記の話を参考にするとエゴサーチは今世受け取られ方全般を気にすることになりそうだ。

 

つまり煩悩の3分の1を引き摺っているのがエゴサーチと言えそうで正体は限りなく執着に思えてくる。

 

 

つまり悩みの元は、エゴサーチをしようがしまいが所詮自分に関する執着で、この心理はエゴサーチなんてできなかった昔からずっと続いているのだ。

 

 

この傾向は、世間から立派な人と思われている人ほど強いのかもしれないと思うと、世の中には大した人はいないなと少しは溜飲が下がる。