ゲストで登場した元プロ野球選手を紹介する昭和の映像が流れていた。
昔はこんな映像に白熱し一喜一憂していたなと思いながら、こんなに不鮮明な映像だったなんて当時は思わなかったなということも思っていた。
テレビはブラウン管で当時の大型テレビですら今の半分のサイズだった。
今の大型テレビをその当時にタイムマシンで運んだら、きっと昭和の人は驚くはずだ。
たまたま比較できたことと、そういう気分だったこともあって気付いたのだろう。
できないと思っていたことができるようになるというのはテクノロジーの発展途上にはよくあることであり、できるようになること自体が感動でもある。
テレビならば、コンテンツの良し悪しや完成度を問う以前に、テレビで見れるというだけのことがエンタメとして成立していたのだ。
翻って現代、どうやって実現するかはともかく、想像できる大抵のことは遅かれ早かれ何でも実現してもおかしくないと心のどこかで思っている人は大勢いるだろう。
そういう思いは不思議なことに実現しても大きな感動は生まない。
きっと予定調和なのだろう。
半世紀前初めて人類が月面に着陸した際のロケットアポロ11号に搭載されていたコンピューターは今のスマホの最安価格のスペックよりもはるかに低いというものだった。
しかし現代でも月に着陸することには高いハードルが存在しているという意味では予定調和を達成できてないが、成功しても予定調和しか感じないかもしれない。
感動には一期一会が付きものだと思っている。
何度経験してもその都度何かしらの一期一会がそこに感じられればきっと感動できるはず。
しかし、『ああ、またか』と感じてしまうとそこに一期一会は無いので本当は初めてでも予定調和しか感じないだろう。
辞書的な意味としての一期一会が大事なのではない。
何に一期一会を感じるかは人それぞれだろう。
一期一会を一生に一度と思い込むとハードルを高めてしまうが、気の持ちよう次第で昨日と今日は違うし、明日は初めての今日になるのだ。
本気でそう思える人だとこんな気持ちは初めてだと何度も思える。