初めて自転車に乗れた時その理由は考えない。
初めて逆上がりができた時も同じだ。
その他多数あるだろう誰にだって、初めての時が。
後から振り返ってあの時なぜできたのだろうかと思うことがある。
思い浮かぶ理由は、誰だって似てるかもしれない。
- たまたま偶然
- 教え方が上手な人に教わった
- 一生懸命練習したから
- できるまで諦めなかったから
- 自分に素質があったから
これらはどれも当たっているかもしれないが、全て間違っている。
答えは『できるようになりたいと本気で望んだから』だ。
『馬を水飲み場に連れて行っても水を飲むかは馬次第だ』と同じで、どんなに教え方が上手な人がいても、教えを実践できるかはやる気と練習次第だし、やる気さえ持続してれば独学や我流であっても遅かれ早かれできただろう。
現代のように何事も効率の良さが求められるようになると、失われていく価値観がある。
若い頃嫌いな言葉の一つに『技は盗め』というのがあった。
当時の私は『上手に教える能力のない奴に限ってそういう言い方をする』と思っていた。
そして、かなり長いことそう思い続けていた。
実際に教える能力の低い人が多かったからでもあるが。
そして最近、と言っても数年くらいの幅はあるが、教え魔という言葉を聞くことが増えた。
これはひとえに教える側(教えたがる人でもある)と教えられる側の意識のギャップを示しているのだが、これは効率重視の成れの果てではと思うと、そうとしか思えなくなった。
そうなると、一周回って『技は盗め』が価値を持ち出すように感じたのだ。
役に立つからという理由だけではきっと技は身につかない。
そんな気持ちでやるくらいならChatGPTの方がよほどできるはず。
技を盗もうという動機は、その技を本気で身につけたいという気持ちがあって初めて成立するが、この気持ちには持続力がセットで求められる。
教えられる側の存在が、学ぶ側であることが大事になる。
今の時代の最も残念な点は、学生を除けば学ぶということはプライベートな時間を当てるしかないのだ。
じゃあ今の学生が学べることのありがたさを認識してるかというと、よく知らないが今の日本を見てると微妙な気がする。
学ぼうとする人を歓迎するのは、学びたいと思う人からお金を得ようとする人や組織であって、仕事や他のこととは両立しにくくなっている。
給料を得ながらだと教えられることはあっても、それは学びたいこととは限らない、だから教え魔なのだ。
教えられる内容は望んでるものではないのだ。
望むものとは、自発的なもので自分の内側からしか出てこない、しかしヒントは自分の外側に多数存在しても不思議はない。
自分の外側にあるヒントとの出会いは運に依存する割合が大きいかもしれない。
技は盗めが成立すると、背中で語るも成立する。
言わなきゃ伝わらないが当たり前の現代で、言った結果伝わってる多くのことはきっとどうでも良いことだらけのように感じる。
肝心なことはちっとも伝わってこないと思ってる人は多いはず。
肝心なことは自分から求めなければ得られないし、肝心な情報を持ってる人でさえその価値に気付いてない人が多いとすれば巡り巡って伝わってくることは稀なのだから。
空気を読むとか察すると似てるようで全く違う自発的な価値観に目覚めることが答えを模索する人には必要になってるはずだ。
現代人は説得されたり納得させることを嫌っているのだ。
教えられてであっても、学んでであっても、その結果気付けるかが問われているのだ。