違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

計画性vs衝動性

昨日は二つの訳が分からない事件が話題になっていた。

 

どちらも犯人はすでに警察の監視下にあり市民が心配する必要はないが謎は多い。

 

二つの事件の第一報に近いものは次のように伝えていた。

 

 

 

 

 

 

長野の事件の犯人は地元の市議会議長の息子で犯行後自宅に立て篭もったが、それが分かったのは第一報からずいぶん経った後。

 

 

福岡の事件では犯人は入院中で事情は全く不明。

 

 

 

さて、これらの事件にニュースで接したほとんどの人は、犯人に対して『どんな事情があったか知らないがそんなことするなんてバカだなあ』と思いながらも、どんな事情だったのかを知りたくて仕方ないだろう。

 

 

そして、それがどんな事情であっても『自分だったらやらないな』とも思うはず。

 

 

 

しかし、妙に寝付けない夜中に一人でいたとしたら、犯人と自分は大して違わないかもしれないと思うかもしれない。

 

 

自分の心の奥底にある不満や怒りはそれが何に対するものであっても、日常生活の中ではうまく折り合いをつけて眠らせているだけだと気付くと、きっかけ一つでそんな不満や怒りは目を覚まし明日は我が身かもと寒気を感じるかもしれない。

 

 

そんな寒気を意識し自覚したら、そしてそれを自力で払拭できなければ、何かに縋りたくなるはず。

 

縋るというよりも依存だ。

 

 

依存先は大きく二つだ。

 

 

ことばか薬物。

 

 

両方という場合もあるだろう。

 

 

ことばへの依存の場合、そのことばを発する人に対する個人崇拝的な依存でもあるだろう。

 

ことばには過去の偉人や歴史的な名言も含まれる。

 

 

自分自身で自分をうまくコントロールできない人の末路は依存になるのだが、依存するという選択が最良のコントロールだと思い込むから依存に至ることが恐ろしいし、だから洗脳と呼ばれるのだ。

 

 

一般的には依存の反対語は自立とされるが、現実的には依存の反対語は『別の依存』だ。

 

 

犯罪者でもなければ話題にされるような事件も起こさない人は、法治国家では法律に従わざるを得ないという意味で、法律に依存してると言えるのかもしれない。

 

 

更に言うと、スマホや防犯カメラなどあちこちで自分の知らないところで自分が画像映像として捕捉されてることへの自意識が防衛意識として法律への依存を増しているのかもしれない。

 

 

取り上げた事件はどちらも犯人には計画性よりも衝動性しか感じられない。

 

 

依存していても、その依存の持続性が成立してれば衝動性に基づく事件は起きなかったはず。

 

 

依存の持続性が破綻したから起きたのだとすると、事件にはもう一つのパターンが存在することになる。

 

 

依存の持続性が破綻した場合に、計画性に基づいて起きる事件だ。

 

 

事件を見る際に、衝動性が前面に出てるか、それとも計画性が前面に出てるかで分類すると推理が楽しめるかもしれない。