岸田総理の嫌いな言葉遊びをしてみた。
〜〜〜国会での遣り取り〜〜〜
立憲 田島麻衣子氏
「長男の交代は、更迭と理解してよろしいか?」
岸田総理
更迭かどうかという質問ですが、「言葉遊び」をするつもりはありません、「けじめをつけるために交代させる」、このように申し上げてる
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シンプルに誰が一番強いかを競う格闘技世界一戦を設定することはシンプルどころか実に複雑で困難が付きまとう。
誰が強いかだけでなく、どの格闘技が強いかが決まるからであり、異なるルールに対する調整も有利不利の元となるからでもある。
また、勝者の側が得るものよりも、敗者の側が失う存在意義の方が遥かに大きいと思われるからだ。
大々的に告知された勝負事で決着がつくということは、負けた方は全てを失うことになり、負けた方は個人だけでなく、組織や団体を含めての存続にすら影響しかねないからで、利権だけでなく評価や名誉やプライドなどありとあらゆることが絡んでくる。
物語としてはそういう展開をイメージしやすい。
しかし、実際に催された世界一戦あるいは異種格闘技での敗者側が全てを失うということはなかった。
その時の勝者であり敗者に過ぎないだけだった。
目指したはずの最強の称号は極めて内輪なものでかつ瞬間的なものに過ぎなかった。
それに対して現代の『全てを失う』は割とイメージしやすい。
思慮分別に欠けた悪事がバレるだけで達成可能になっている。
もちろん『全てを失う』のは未来永劫にというわけではなく、敗者復活も可能だろうが、足を大きく引っ張られることは間違いない。
現代では、何かを得ることは年々難しくなるが、その割には失うのは簡単になっている。
それに比べたら、最初から何も持ってないという自覚がある人だと、別に今さら失うものを気にすることもないだろう。
どうせ全部失ったから、今さら命だけ残っても意味も価値もない、そう考えてヤケクソになるのが無敵の人。
無敵の人には恐れるものがないが、それは世間を騒がせる悪事で認識される。
一方で世間が気付かないのは、無敵の人ゆえに成功できたという話。
ヤケクソパワーが発揮されるのは悪事だけとは限らないし、入り口は悪事だが途中から変わるということもあるはず。
無敵の人ゆえに死に物狂いで頑張って、ついには成功を手に入れたというケースだってあるはずだが、成功した時には無敵さは影も形も残ってなさそうな気がする。
得たものは守りたいのが人情で、その人情はもはや弱さになるからだ。
無敵の人が奈落の底から這い上がったらすでに無敵ではないのだ。
単なる言葉遊びなのだが、最強であることは無敵であるかもしれないが、最強でありかつ無敵となると概念として成立できないような不思議さを感じる。