起きたことが結果ならば、起きる前には原因があったはず。
しかし、その原因が生じた理由を遡ると別の結果(つまり別の起きたこと)が見つかる、そういうことの繰り返しが隠れていることは少なくない。
また、起きた結果から始まることが次の何かの原因になる。
時が流れるというのは無限の原因と結果の繰り返しで、気がつくと順番が分からなくなる。
卵が先か鶏が先かだ。
ビジネスライクに表現すると、
需要が先か投資が先かとなる。
需要とは市場であり、投資とは広い意味での開発や研究になる。
開発や研究の結果として商品やサービスが市場に供給され、市場に供給された商品やサービスを踏まえて新たな開発や研究が行われることでまた新たな商品やサービスが供給される。
供給が先で需要が遅れて付いて来ると思われがちだが、偉人扱いされる企業家は供給の前に潜在的な需要を見抜いているものだ。
潜在的な需要に対して行われるのが投資だ。
そういう意味で言うと現代の投資は本来の投資に必要な潜在的な需要に対する目利きというよりも、当たるか外れるかの博打そのものが多い。
良いとか悪いという話がしたいわけではない。
人間が起こすことに関連しての原因と結果について考えていると、人間は大きく卵派の人と鶏派の人に分かれるように感じる。
そしてさらに目を凝らすと、卵派の人でも目の前の卵しか見えない人と、卵の前段階の鶏を見てる人もいれば、卵の後段階の鶏を見ようとしてる人もいる。
鶏派もまた同じだ。
どちらにしても大多数は目の前の卵や鶏しか見てないが、興味深いのは卵派でも鶏派でも前後を意識してる人は、卵派ならば鶏を、鶏派の人は卵を意識するという一見真逆の現象が起きることになる。
卵と鶏に例えて原因と結果の連続性に着目すると時間の経過での進化(退化)的変化を螺旋的なループを描くようなイメージを持ちやすくなる。
それに対して需要と投資の関係は、ループに近いイメージとはかけ離れたものも容易に想像できる。
需要と投資が織りなす関係性や方向性は常に混沌と紙一重なのだと思えてくる。
未来が明るいイメージの人もいれば悲観で満ち溢れてる人もいるのだが、実際にはほんのちょっと着目するポイントが違うだけだ。
失いたくないものを持ってる人と、失うものを持ってない人だと着目するポイントは大違いのはず。