今日、富士山ローソンに目隠し幕設置が話題になっている。
写真を撮りたい観光客の行動が地元の人にとっては迷惑だから。
つまり、観光客と地元が対立してるのだが、その対立に多数の傍観者も参入している。
地元からすると観光地でもなんでもない場所がある日突然観光地化したのだ。
だから観光地としての整備状況に不備があったという指摘は当たらない。
観光客からすれば富士山が映える状況さえあれば良いだけで、その場所に対する思い入れなどまったくないはず。
せめて地元が潤うなら慰めようもあるがただ通り過ぎるだけだとしたら落とし所はどこになるのだろうか?
目隠し幕の設置が良い意味での解決になるわけではないことは百も承知の上でもっと良い方法は無かったのか、対立の構図を共存共栄にできるような。
TwitterがXになったことで一層顕著になったのがインプレゾンビと呼ばれる反応だけが欲しいアカウントの増加。
それとは別に、既存の新聞や雑誌を含めたそれなりのメディアですら見出しやタイトルと記事の内容が合致しないようなものが数年前から増えている。
記事の内容で信用や信頼や満足を得ようなどとはもはや思ってないというのが本音なのかもしれない、読まれてなんぼ、いや読まれる必要すらなく、ただ見られたという実績だけが得られれば良いと考えるようになっているのだろう。
何が言いたいかというと、共存共栄はますます遠ざかるということだ。
目先の欲やお金の匂いに吸い寄せられて生じた動機が、建前を駆逐してるのだ。
ここまでは迷惑を掛ける人の話を書いているのだが、同じように目先のお金の匂いに吸い寄せられる存在には詐欺の被害者やカモもいる。
加害者も被害者も同じ種類の属性で、どちらに振り分けられるかはまさに運なのだろう。
誰だって平和を望むはずだが戦争や紛争がなくならないのは、そこには総論賛成各論反対という摩訶不思議が成り立つから。
共存共栄には賛成するがそれは先に自分が栄えた後でと思う人がなんと多いことか。
栄えさえすれば幸せになれるはずという総論は、それを支えるはずの各論の全否定を生んでいるとすれば、共存共栄もその先の万人の幸せも存在できないことになる。
じゃあ、自分さえ良ければ良いとなるのか?
残念ながら自分さえ良ければと行動し達成でき他人からは羨ましがられても、心の中は虚しいだけなのだ。
だから虚しさを埋めようと称賛を求めると結局同じことが繰り返されるだけになる。
歴史は繰り返してばかりなのだ。