生きてるとさまざまな基準値や標準値あるいは平均値と遭遇する、いや押し付けられる。
例えば適正血圧のように。
一方で誰もが基準値やや平均値から大きく抜きん出た成果や結果を上げたいと心のどこかで願っている。
しかし、どんなに頑張っても大谷翔平には大谷翔平以外の人はなれない、人間性においても実力においても。
同じような教育や指導を受けても同じ人間はできない、なんとなく自然と誰もが気付いているはず。
一方で、カルト宗教やテロ組織場合によっては企業でも、属して帰属意識や忠誠心が芽生えてしまうと、姿形は違えども行動や価値観はまるでコピーされたかのような人が量産されるイメージを持つはず。
何が違うのか?
その違いは変数要素が多いか少ないかだ。
自己実現を図るためには行動の自由が前提になる。
教育や指導という入力が仮に同じだとしても、それを処理するソフトウェアは人それぞれが独自のものしか持ってない、その処理したものを如何にアウトプットするかも身体性が関わると、変数要素だらけでまるで違ったものになって当たり前。
一方で強い帰属意識や忠誠心という束縛を受けると自由は鳴りを潜めるので変数要素が少なくなる。
AIなどが社会の中枢を制御するようになるということは、社会から変数要素が排除されることを意味し、それは自由の減少と同じになり、さらにいうと自然の摂理と相容れなくなる。
余談だがマイナカードの扱いを巡る攻防も、変数要素を排除したい派と排除されたくない派の争いと思うと納得できる。
思い通りにならないのは、計算通りにならないということで、それは変数要素が多いから。
逆にいうと、計算通りにうまく行くというのは変数要素が少なかったからであるか偶然かだ。
社会で噴出するさまざまなハラスメントを見てると、変数が自ら意思を持つかのように変質してることが感じられる。
あんなに持て囃されていたEVがおかしなことになっている、中でもテスラが。
社会に存在する変数要素を限定化することでEVは価値をアピールすることに一旦は成功したが、ある程度市場に流通すると新たな変数要素が噴出してきたのだ。
計算通りにうまく行かない場合には必ず変数要素の影響を受けている。
その変数要素が何なのか、いったい幾つくらい存在するのか、そういうことをまったく考えずに立ててる計算が役に立つわけない。
変数要素はトレードオフに似てるようだが一味違う。