世の中に鬱やハラスメントが溢れるようになったのはきっと各種の界隈で競争が激化したから。
理屈上は勝者と敗者は同数とも言えるが、どんな分野でも勝ち続けるのは圧倒的な少数だけ、圧倒的大多数は負けることを余儀なくされる、その不満や鬱屈が諦めや被害妄想と結びつくと、怒りや不満や不安は増幅される一方になる
そうなると、大きく二つに分かれる。
何がなんでも勝ちたい、そのためにどうすれば良いかという情報収集に余念がなくなる場合と、自己防衛のためにも勝負の無い世界を望むようになる場合の二つに。
この二つは価値観として相容れない、個人的には後者に共感する。
少々ニュアンスは違うが1973年の映画『燃えよドラゴン』で主演の
ブルース・リーが格闘の映画にも関わらず『fighting without fighting』と発言したことはいまだに名言として生きている、この場合の『fighting without fighting』は今でいうビジネス用語のブルーオーシャンに近いかもしれない。
勝負の激化が起きるのは、多くの人が同じ土俵に上がろうとするからだ、つまりレッドオーシャンだ。
勝負の無い世界とは、混雑しない土俵に上がることだ、いやそれ以上に重要なのは自分のマイ土俵を持つことだ。
自分一人しかいなければ退屈するかもしれないが、競争というよりも切磋琢磨が起こる程度の賑わいはあったほうが楽しいのは間違いないが、その土俵に上がれるのは自分が承認した人だけ、結果として排他性は生じるが土俵の環境を守るためには必要になる。
結果としてネガティブな感情から解き放たれる。
そういう意味ではDIY的なものは理想だ。
完成度の高さだけが目的ならばDIYである必要はない、DIYである必要はあらゆる面で自分が主役になれることにある。
自分より上手な人に教えを請うのは勝負に負けたからではない、そういう関係性が成立する場合には教える側だって自分が上だなんて思わずにただ自分の方が経験量が多いだけだとかしか思わない、自分の経験が活きるならと喜んで教えるはず。
今では医者を含めて誰だって心と体が関連していることを知っているが、心と体が関連してることを医学界が認める方向に転換したのが1991年からと日は浅いのだが、そのことと競争の激化はリンクしてるはず。
競争は知恵比べやアイデア合戦くらいがちょうど良いはず。