映画やドラマでは、目の前のスクリーンやディスプレイで展開されるストーリーを鑑賞する、展開される映像は与えられたものになる。
小説を読むことは脳内のスクリーンにストーリーの展開を映し出すが、その映像は自分の脳が作り上げるもの。
映画やドラマの脚本やシナリオが小説と全く同じだとしても映像が目の前にあるのと脳内にあるのでは描かれてる世界は同じにはならない。
その中間にマンガがある、アニメではない、アニメは映画やドラマの側に位置する。
マンガの場合、映像イメージは与えられるが脳内ではその補完も行われているはず。
どれであろうとストーリーの展開は擬似体験として機能し感情移入の対象になる。
描かれてるストーリーは一つでも、その解釈としての擬似体験から何を得るか、何を感じるかは人それぞれだ、気分によってすら変わるだろう。
感想を語るような場合は、主要なイメージは記憶という脳内イメージになるので、その時点でも人の数だけ思いは分散するだろう。
細部に目を凝らすと決して同じではなくても、大筋で肯定的あるいは否定的という思いが一致するなら価値観は同じに近いと言えるだろう。
現天皇が皇太子になる数年前つまりまだ昭和の頃、『どんな結婚相手が良いか?』と聞かれ『価値観が同じ人が望ましい』と答えその一例として『自分が美しいと思うものに対して同じように美しいと思える人であってほしい』というようなことを答えていた。
価値観は、擬似体験であってもいや擬似体験だからこそストレートに現れるかもしれない。
情報化がますます加速する現代では真実かフェイクかすら判断が難しい時代になった。
つまり無自覚な擬似体験で溢れその影響を受けているのだ。
自分のことだとグッと反応することを堪える人も他人のことだと抑制が効かなくなるというの不思議なことだが、そういうことは多い。
ますます過敏になる人もいれば鈍感の極みに達してる人まで様々だ。
人それぞれの価値観や人生観や処世術が反映された結果の振る舞いのはず。
擬似体験は作られたものばかりではない、日常で起こる様々な事件や事故も擬似体験だ。
今の自分は擬似体験でできている、そんな人は思ってるより遥かに多いだろう。
そして多くの人はそんなことに気付いてないはず。
人は自分を魅了する擬似体験を探す生き物なのだ。