お金の使い方を考える場合大きく三種類に分かれる。
- お金をそのまま保つ貯金や預金
- 欲しいものや必要なものを買うという消費
- さらにお金を増やすための投資
巷でよく言われる勉強や経験という自分自身への投資は消費に該当する、これを投資だと思い込むのは大きな勘違いだ。
しかしながらもっと大事なことは、三つのどれを選ぼうと、それぞれの分野から何を選択しようがすべて商品の購入になるのだ。
銀行に貯金をするというのは、現代は昭和と違い金利も付かないのでお金を増やす行為だとは認識されないが、銀行側からすると普通預金ですら金融商品で、口座を設けそこに貯金するというのは金融商品の購入をしてることになる、実際の意識は金庫のようなつもりでも、リスクの有無で言うとリスクはとても小さいので商品を購入してるという意識が乏しいのが盲点になる。
最大の盲点は貯金に回った金額分だけ可処分所得が減ることになるので他への出費ができなくなる。
現代では消費は愚かな行為で増やすための投資こそが賢い選択だと説く意見が大きいが、投資のほとんどは貯金や預金と違って元金が保証されない金融商品の購入になる。
2.の『消費』の一部にも3.の『投資』に相当することが含まれる、例えばより高値で売るための仕入れに該当するような消費だったり、限定品や少数生産で販売後に価値にプレミアムが付くことが期待できるようなものへの消費などは投資によく似てるが、結果を手に入れるためには余計な手間が一つや二つは必ず発生する。
三つの使い方のどれを選択しようが実際にやってることの違いは思ってるほど大きくはない。
しかし意識は大きく違うので、互いの選択の違いを理解できないことが多く、そんな時は互いに相手がバカに見える。
どれを選ぼうと良い結果になる場合もあれば悪い結果になる場合もある。
『そうなると分かっていたから(分かっていれば)やった』あるいは『そうなると分かっていたから(分かっていれば)やらなかった』のように。
健康や人間関係に対する選択肢と取る行動にも共通する。
やってることも結果も大きく違うと、まるで敵のように感じることもあるかもしれないが、考えようによっては似た者同士とも言えるのだ。
世の中には正反対を感じているのに同じが隠れていたり、同じだと思っていたらまったく違っているということはよくありそうだ。
このように考えていると、無関心ですら興味の現れのように思えてくる。
人間の営みに逆説やパラドックスが多いのは、結局は似た者同士だからなのかもしれない。