行動経済学にセミ・ホームメイドの法則というのがある。
直接的には料理や調理に関する話で、あまりにもお手軽なインスタントで作ると、出来上がったものに満足できないし、「これは自分が作ったものだ」と思えないらしい。
インスタントのお手軽さは7割くらいがちょうど良く、残る3割に自分なりのアレンジや創意工夫が施されるくらいだとお手軽である恩恵を受けつつ満足や喜びも大きくなり、これは自分のものだという所有欲すら高まるらしい。
この場合の3割とは具体的には混ぜたり何かを加えるというレベルで、難易度から言うと人によってはとても創意工夫とは思えないレベル。
そして、自分なりのアレンジや創意工夫の割合が3割を超えることが要求されると、もはや苦痛で楽しめなくなるとも言われる。
この話、料理や調理に限らないだろう。
創意工夫の割合が増えるほど、それが何に関してであっても人は苦痛を感じる生き物なのだ。
翻って、何から何まで創意工夫で向かい合う人は例外中の例外なのだ、中には使う道具すら創意工夫で作る人がいるが。
日記やブログを書くという行為ですら、パソコンやスマホがあるからする気になれるが、手書きでとなったら私は絶対にしない。
創意工夫が関連するあらゆる分野にテクノロジーやエネルギーが日進月歩で注がれている。
上記で書いた7割や3割が意味する質的な中身は常に現在進行形で変化してる。
インスタントな7割がアップデートされないままなのとアップデートされているのでは、3割の創意工夫の中身も違ってくるし、当然出来上がるものもまるで違ってくるが、それは能力や実力や努力の差とは必ずしも言えない。
強いて言うなら、新しいものへの適応の差だ。
屁理屈的に言うと、コロンブスの卵のレベルの差だが、その差が決定的な差になるのだ。
昨日の東京都知事選における勝者は石丸伸二氏だと言われる。
それは時代を先取りしたからだ、主義主張で勝負せず、フワフワとしたイメージを植え付けることで人の心理を惹きつけることができることを身をもって証明したからだ。
フワフワとしたイメージ戦略にYouTubeやSNSが有効であることなど誰もが知っているはずなのに、都知事選立候補者の中でそれができたのは石丸伸二氏だけだった。
他の候補者は創意工夫のレベルが低すぎたのだ、この場合のレベルが高いと言うのは中身が高尚という意味ではない。
インスタントに使えるものを活かしたというだけだ。
主義主張や理屈がフワフワとしたイメージに負ける時代はすでに本番が始まっているのだ。