序盤のパリオリンピックに関して日本では、メダルの獲得以上に印象に残っているのが金メダルを期待されながら2回戦で負けた阿部詩のことだと感じる。
対戦相手は世界ランク1位の選手だから格下の相手に負けたわけではないので意外なことが起きたわけではない。
意外でありかつ話題や論点となるのは、負けた後で人目も憚らず大号泣したことだ。
実は複数の論点があったのだが、その号泣を見た人の多くは自分の中での最も大きな論点しか見えてなかっただろう。
わたしは、コーチに抱かれてへたりこんで泣き崩れるその姿をカメラマンが特に最前列にいた日本人らしきカメラマンがうすら笑いとすら見える表情を浮かべて撮影していた姿だった。
Twitterではわたしと同じように感じた人も多かったようだが、それと同じくらいかそれ以上に多そうだと感じたのは、泣き崩れるなら裏手に引っ込んでからにしろというものだった。
また、カメラマンとしてそのシーンに食いつくのはプロなら当然だという意見も多かった。
これまで勝ち続けてきたから負けると何を感じるかを理解できてないという意見や、負けて悔しいのは皆同じだが、次の試合の進行に影響を与える形で泣き崩れる姿に不快感を感じる人も多かったようだし、選手としてのマナー違反だという指摘もあった。
なるほどなと感じた。
あまり自覚はないが、思考や感受性にはその人固有の軸があるということを改めて実感した。
どこに論点を見出すかは、個性と連動してその時何が目に入ったか次第なのだ。
どういう論点であれ正しいとか間違ってるとかではない。
ただ、共感が多く得られるか得られないかという違いは生じるし、共感が得られない論点は間違い扱いを受けるだろう。
ではなぜ人目も憚らず大号泣を起こしたのか?
もちろんいうまでもなく悔しいとか悲しいという思いはあっただろうが、大事な何かを失ったという取り返しのつかない喪失感だったような気がする、おそらく生まれて初めての体験だったのかもしれない、単に負けたということではなかったはず。
生きていると避けられないのは、大事な何かを失うという喪失感の体験だ、しかし生きるということはその喪失感の先に何かを得るということでもある。
阿部詩の大号泣に励まされた人は少なくないように感じる。