倍速視聴がタイパ(タイムパフォーマンス)という効率のために行うものとして存在感を現したのが2022年頃から、鑑賞スタイルとして賛否は分かれるが、過去に何度かブームになった速読と共通するように感じた。
表面的な共通点は時間効率の良さだ。
映画やドラマを倍速再生し短時間で見終えたり、本を短時間で読み終えられれば、浮いた時間を別のことに当てられるという共通点。
この時間効率の追求は理屈では効率的でも質が伴うとは思えないという人も多い。
速読に関しては、いつの頃からか本の購入は実際には書棚に飾ったり写真に撮るためで、本は読まずにネット上のその本のあらすじや要約を載せたサイトに目を通すことで本を読んだ体を装うというスタイルに変化している。
一体何のためにそんなことをするのか、そんなことをして果たして効果はどうなのか?
インターネットの登場やPCやスマホの普及のせいだと思い込んでいるがそれよりずっと以前から、するべきことに加えてしたいことは年々増加していたのだ。
そういう時には必ず二兎を追う者一兎をも得ずというトレードオフに直面していた。
一方それに反して何とかして二兎を得ることはできないか何なら三兎を得たいという欲望は強くなるばかりだ。
最初は強欲なごく一部の者の望みだったが、時代が進むほどに誰でも望むことになっていった。
ネット以前の時代でも年々テレビ局やラジオ局や出版社や雑誌の数だって増える一方だった。
そしてネット時代に入り、それ以前の時代に比べてコンテンツの量は飛躍的に増えた。
コンテンツは新しいものだけでも膨大なのに古いものも保存され検索可能になると、見たいものが何なのかすら分からなくなる。
とりあえず、身近で話題になってるものや世間で話題になってるものくらい知っておかないとと思うのは自然だ。
しかし、本音としては特別関心や興味があるわけではない、そんな時だからこそ倍速視聴が役に立つ、短時間で情報を処理できるのだから。
本当に見たいものや本当に知りたいことが何なのかも曖昧だが、供給されるコンテンツだけはどんどん増えている、もはやタイパでどうにかなるレベルを遥かに超えている。
情報に関しては断捨離どころでは不十分かもしれない、そのくらいコンテンツは増殖してるのだ。
増え過ぎたコンテンツは人を幸せに出来ているのだろうか?