本を読んだり説明を聞いたりして何かを理解できたような気になる場合、本や説明には具体的な写真や映像が提供されてなくても人それぞれに脳内で映像イメージを描くらしい。
自分ごととしてはとても納得できるが、その映像イメージはやっぱり人それぞれだろう。
だから、共に理解の程度は同じだとしても持ってる映像イメージは違うだろうし、持ってる映像イメージの違いが理解の程度に差を及ぼしてもいるだろう。
テレビや映画やYouTubeやSNSなどでストーリー性のある映像を多数見ることに慣れると、他人と映像イメージの共有が可能になる一方で、小説を読んでともに感動していても脳内で描いてる映像イメージはおそらくまるで違うかもしれないという昔だったら当たり前の体験が減っているはず。
一致するあるいは共有が成り立つという概念は、最近ではマッチングと呼ばれるが、持ってる映像イメージはどのレベルでマッチングしてるだろうか。
脳内で描かれる映像イメージとは、その人の脳内に保存されてる映像イメージが元になるらしい、当然記憶が変化するように映像イメージも脳内で元々のものから変化してることも少なくないだろう。
昭和に青春を過ごした人が覚えてる夏は今年のような夏ではない。
暑いという共通点はあっても暑さのレベルが違うと、映像イメージもまるで違う。
台風10号が過ぎて確実に夜が過ごしやすくなった、虫の音も聞こえるから秋の気配に思えないこともないが、たぶん今の状態が昭和の真夏のような気もする。
とどまらない誹謗中傷も、何らかの映像イメージに基いて発されているのだろうが、誹謗中傷を受けた人もそれによって何らかの映像イメージを持つのだろうなと感じてる。
コミュニケーションは言葉で取るが、その結果は映像イメージとして残ることも多い。
映像イメージが固定化されるコミュニケーションと映像イメージが固定化されないコミュニケーションがあるなと今更ながら思っている。