『地面師たち』を読んでから自分自身の中でちょっとしたマイブームが、ウソを吐くということへの考察だ。
ウソなど一切吐かずに愚直に真面目に生きてる人の多くは、第三者の目には冴えない生き方をしてると思われがちだ、だから真似をしたいとは思われにくい。
ウソを吐くということは、演技をするということと通じる気がする。
つまり上手下手があるし、それ以前にどんな脚本やシナリオに基づいているかが重要だし、どこまで徹底するかが問われる。
こんなニュースを目にした。
入院中のはずが…ウソの発注で会社に約3190万円の損害与えた疑い 社員の男と知人の女逮捕 余罪10億円程か
古澤容疑者はこのころ体調不良を理由に会社を休んでいて、名古屋市内の病院に入院していると説明していましたが、会社の関係者が見舞いに訪れたところ、入院もしていませんでした。
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記事を読んで、この程度のシナリオしか描けないならばウソを吐いてはいけないなと強く感じる。
成功する巨額な詐欺事件は、想像するよりはるかに繊細で緻密で大胆なシナリオに基づいて共犯関係にある登場人物が行動してる。
決して一人では成功しない、そんなシナリオが成り立たないからだ。
登場人物の人選もまた繊細かつ緻密で大胆なはず。
偶然やハプニングや想定外は付き物だから、シナリオは展開次第でプランBプランCと準備しておく必要だってある。
ここまでやるんだったら表の世界でまともに真面目にやることだってできるだろうと思いがちだが、世の中はそう単純ではない。
真面目に生きるのが一番だと思える人は、自覚は乏しいかもしれないが恵まれてる人なのだ。
そうではない人は、常に不満を抱えている。
不満はピンキリで、その不満と釣り合うのは理不尽な贅沢や高望みにしか思えないものもあればささやかなものもある。
しかし、不満に囚われたら説教めいた理屈は通じない。
不満解消の実現への執着に囚われるのみだ。
だから、一発逆転や復讐の思いを心に強く持ち続けることになる。
法律や道義は利用することはあっても従うわけではない。
緻密さと大胆さで武装された確かなシナリオに亀裂を入れさせるのは一片の杜撰さだ。
不運やアクシデントのようでもあるし、神様は悪を許さないということのようでもある。
明日は我が身、被害者になるにせよ加害者になるにせよ。
生きるとはそういうことなのだ。