兵庫県知事選を外野から眺めていた一人としてはまさに斎藤知事の再選は『まさか』だった。
しかし、前回選挙より投票率も上がった上での再選であるのできっと外野には見えない何かがあったのだろうし、外野には分からない何かが起きていたのだろう。
再選を受けてメディア情報ではSNS戦略が巧みだったなどと取り上げられているが、同様にSNSの使い方が巧みだと評されてるドナルド・トランプ氏とは趣を異にしている。
SNSが既存マスコミより世論形成力で上回るようになったかはさて置き、大衆にリーチする情報や大衆がキャッチする情報に変化が出てることは間違いないだろう。
今のところこの変化はすべての人に起き得ることというよりも、当事者に起き得ることと言えそうだ。
当事者意識の有無がアンテナやセンサーの感度に影響してるのかもしれない。
トランプ氏ならば投票権を持つアメリカ国民であり、斎藤氏の場合であれば投票権を持つ兵庫県民が当事者になるが、真の当事者は投票行動を取った人だけだ。
既存メディアの中にもこの当事者に該当する人は多数いたはずだが、その報道内容に当事者意識はあったのだろうか。
主語を曖昧にしたり省略してもコミュニケーションが成立する日本(日本語)ではきっと伝わる内容もどこか曖昧で、肝心な何かが省略されて伝わることが常なのかもしれない。
今起きてる変化は、正しいことが起き良い変化をもたらすなどとは言えそうにはないが、少なくとも嫌なことに『NO』を突きつける動きとして顕在化している。
そう考えると兵庫県知事選に感じた『まさか』の思いは少し薄らいでくる。